ウヲノメ 前編

私が十歳の夏、祖母が死んだ。

 

両親が早くに離婚して、祖母と父との三人暮らしだった私にとっては、祖母は母親代わりのようなものだった。古い浴衣をほどいてバービー人形のサマードレスを縫ってくれたり、余り野菜と魚肉ソーセージを具にした焼き飯の作り方を教えてくれたのも祖母だった。

小さな棺にちんまりと収まった背が低くて細い祖母。紙のように真っ白な顔は安らかで、少し開いた口なんかを見ていると昼寝をしているときの顔と変わらない。棺の周りに山と積まれた淋し見舞いには、祖母の好みを反映してか西瓜がたくさんあった。
この西瓜、棺に入れていいかなぁ。

私は、そう父に訊ねたそうだが、私はそのことをちっとも覚えていない。でも、お線香の匂いは祖母が愛用していた匂い袋の香りとよく似ていて、棺の傍でほっとしたことはとてもよく覚えている。周りのおとな達は、私のそんな気分をまったく理解していないようで、目を真っ赤にしながら「梨香ちゃん、気を確かにもってね」「これからお父さんを助けて頑張るのよ」などと言っていた。私は、多分苦虫を噛みつぶしたような顔をしながら、おとな達にうんうんと頷いていたと思う。
でも、そんな不機嫌な表情をしていたのは祖母が死んだ哀しみのせいではなくて、足の裏にぽつんとできた魚の目が痛かったからだ。

風邪らしい風邪すらひかない祖母が倒れて入院した日の夜、私は風呂上りに足の裏に痛みを感じた。洗面所の床に足を置くと、ずきん、とも、じくん、ともつかない違和感がある。足の裏を見ると、お湯でふやけて白くなった角質の塊があった。
気持ち悪い。
タオルで一生懸命擦ったけれど、そいつはびくともしなかった。しまいには、足の裏が真っ赤になってしまったので、私は擦るのをやめてしまった。

その後しばらく、その魚の目は私の足の裏に居座っていた。でも私は、そいつに構っている閑はなかった。何しろ祖母の容体が急に悪くなってしまったから、学校と病院の往復で忙しかったのだ。小学校から下校してランドセルを部屋に置いたら、父がまとめておいた洗濯物を大きな紙袋に詰め込んで、バスに乗って病院に出かける。病院に着くと、緑色のリノリウムの長い廊下を歩いて祖母の病室を目指す。廊下に「内科」と書かれた文字と黄色の矢印をたどっていけば、祖母の病室の最寄りのエレベータに間違いなく辿りつける。だから、私は病院の中ではずっとうつむいて歩いていた。リノリウムの緑色──そして色とりどりの矢印、それに私の白い運動靴──はすぐに思い出せるけど、廊下の壁がどんなだったか、窓の外に何があったのかは、覚えていない。

一度だけ、廊下で顔を上げたことがある。

看護師が数人で、ストレッチャーを押していた。それ自体は病院内では珍しい光景ではない。けれど、そのストレッチャーに乗せられた人は、もうずいぶん暑い季節だったというのに頭からすっぽりと布団を掛けられていた。布団からはみ出しているのは、青白い爪先だけ。そのストレッチャーの後ろには、目を真っ赤にしたおばさんと若い女の人が歩いていた。
ああ、この人死んだんだな。
自分が一度も乗ったことのないエレベータにストレッチャーが乗せられ、看護師とおばさんとお姉さんも一緒に乗り込んで、エレベータの扉が閉まった。
扉が閉まる瞬間目に入った爪先を見て、祖母もそのうちこのエレベータに乗るんだな、と思った。

病院で夕食が出る頃、仕事を終えた父が病室を訪れるのが習慣になっていた。私は、祖母のベッドの傍の小さいベンチで、学校の宿題をしながら父を待っていた。父は、毎日食事どきまで待たせてすまない、というようなことを言っていた。お腹が空いただろう、と。けれど、私は同室のおばあちゃん達からお見舞いのお菓子のお裾分けをいっぱいもらっていたから空腹ではなかった。ゼリー、マドレーヌ、羊羹。空腹よりも夕食時の、病院の薬の匂いがいっぱいの空間に、食べ物の香りが混ざるのが気持ち悪くて気になった。なんというか、静かに死を迎える空間に、生命をつなぐための食物の匂いはいかにもそぐわなくて。でも、それを説明するのが面倒なので、父には黙っておいた。祖母は管がいっぱいつながれて、もう食事の必要はない。意識もあったりなかったりだった。意識があるときは、父は祖母と少し話し、ないときには父はしばらく祖母の顔を見て、そして「帰ろう」と私に囁いた。
冷房がほどよく効いた病院から一歩外に出ると、むっとした温気が肌をくるんだ。濃い緑の葉っぱが茂った庭の桜の木では、ミンミンゼミが大合唱をしている。隔絶された死の世界から生の世界へ甦ったような気分になった。それはとてもほっとすることでもあり、起きたくないのに起こされるときのように不快でもあった。管だらけの祖母の傍らで、誰にも見咎められずに小さく背中を丸めているのはそれなりに落ち着けたから。白いカローラの助手席から、うっすらとまだ明るさが残る西の空が見える。私は、なぜかふと足の裏の痛みを思い出した。
「足の裏に、ぽつんとなんかができているの」
梨香の話し方はわかりにくい、と祖母がよく言っていた。だから、私は祖母に話しかけるときには何を伝えたいか整理してから、順序立ててたくさんの言葉を並べて話さなくてはいけなかった。それはとても億劫な作業。でも、父も突然で断片的な話し方をよくするので、父と話すとき私は安心してわかりにくく喋った。
「なんか?」
「いぼみたいなの」
「ふぅん」
父は、交差点を曲がるときは一切口を開かない。そのときも、注意深くゆっくりと右折していた。曲がって、しばらく走ってから父はぽつんと言った。
「魚の目かな」
「うおのめ?」
「さかな、の、目」
「ふぅん」
言われてみると、そんな風にも見える。足の裏の角質の塊に名前がつき、少し不思議な気分になった。
「痛むのか?」
「少し」
「薬局で薬買って帰るか?」
「ううん。大丈夫」
今度は左折。またカローラの中は静かになる。ウィンカーの、かっちかっちという音だけ。
「魚の目な」
あまり余分なことを言わない父が、なぜかそう呟いた。
「何?」
「親しい人が死ぬとき、魚の目ができるって聞いたことがあるのを思い出した」
私は、運転席の父の横顔を見た。既に日はとっぷり暮れて、ネオンや信号の光が父の横顔に奇妙な色彩で影を落としている。
「そうなの? ホントに?」
「さあ」
それから、父はそんなことを言ったのを後悔したのか、早口で
「ばあちゃんには言うなよ」
と言った。
私はもう十歳で分別があるから、祖母に向かってそんなことを言いはしない。「わかってるよ」と言って、父を安心させることだってできた。
「あんまりひどくなるようなら、言えよ」
「うん」
そんな会話をしてから祖母が死ぬまでどれくらいあったか覚えていないけど、祖母の葬式は夏休みに入る前だったから間もなくだったと思う。
祖母の四十九日の法要の頃には、私の足の裏はつるつるに戻っていた。

 

私が生まれたのは昭和三十年のことだから、当然戦争の記憶はない。戦後の混乱の記憶もない。物心ついた頃、世の中全体が貧しかったけれど、未来への期待や欧米への憧れで既に皆胸を膨らませていた。私は明確な野心や希望があるような利発な子どもではなかったが、薄ぼんやりと生きていても何となく世間につられて浮き足立って──浮き足立たされて、生きてきたような気がする。だから、娘の梨香と同様、戦争の怖ろしさや悲惨さなんていうのは、私にとっては教科書の中の出来事に過ぎない。
しかし、母は多感な青春時代の真っ只中に戦争があったわけだから、空襲なんかないような田舎で育ち暮らしていたとはいえ、戦争は母の人生のところどころに影を落としていたように思う。母は、私や私の別れた妻、梨香なんかに、戦争の苦労話をときどきしていた。学校が軍服の縫製工場になってしまったとか、食料の確保に苦労して顔が映るような薄いお粥を食べ続けたとか、そういうどこでもよく聞く話。そんな話は繰り返し聞かされていたので、私達は母の代わりに諳んじられるほどだ。けれど、母がたった一回しか語らなかったのに、妙に印象に残っている話がある。

それを聞いたのがいつだったのかは、忘れてしまった。まだ私が結婚する前で、父も生きていた頃だったろうか。なぜそんな話を母がし始めたのかも忘れてしまったが、切れかけた蛍光灯の下で母が木賊色の着物を縫い直しながら話していたことだけはよく覚えている。母は私の方をちらりとも見ず、手元に視線を落としていた。私に聞かせているのか、誰に語るともなく呟いているだけなのか、判然としなかった。

それは終戦の年の出来事だったという。
母は十五で、毎日学校で軍服を縫っていた。軍服を縫うといっても、物がない時代母達のような子どもが踏むミシンまであるはずもなく、せいぜいボタンを付けたりベルト通しを縫ったり、そんな毎日だったらしい。どんなに過酷な状況だろうと若者は若者らしく、母は当時恋をしていた。相手は近所の大学生だった。近所で大学に入るようなインテリは彼ひとりで、彼は地元の皆からの期待を一身に集めていた。街に下宿して大学に通っていたが、学校が空襲に遭いその頃は自宅に戻ってきていたらしい。母は、近所を散策する大学生の姿を見るだけでも浮き立ち、挨拶を交わそうものなら一日中天にも昇る心地だったという。
しかし戦局は日に日に厳しくなり、その彼にも召集令状が届いた。近所の娘達は嘆き哀しみ、男達はあんな優男が戦場で役に立つものかと陰口を叩いた。当の本人はどう考えているのか、礼状が届いた後も散歩したり本を読んだり、変わらず過ごしていたように見えた。それまではそんな彼の姿を見てときめいていた母だが、彼が戦地に赴くことを想像するだけでも呼吸が苦しくなり、努めて彼に近づき言葉を交わそうとしていたのを一変して彼を避けるようになってしまった。母はそうやって必死に堪えていたが、彼の千人針を縫っているときに耐え切れずに号泣してしまったという。
ようやく母が彼と話したのは、彼が出征する前日のことだった。
母が彼の無事を祈ろうと神社に行くと、境内にある満開の梅の花をぼんやり眺めている彼に遭遇した。母は彼の姿を見て引き返そうと思ったが、勇気を出して彼に挨拶をした。母に気づいて振り向いた彼の白い顔を見て、この優しい人が戦場に行くというのに一体何と声をかければいいのかわからず、話しかけたことを一瞬で後悔した。そんな母の気持ちを知らず、彼は疲れたように微笑んだという。
「久しぶりだね」
「あ、あの……」
母はずいぶん長くもじもじして、困り果てた挙句おとな達が言う決まりきった科白しか出てこなかった。
「あの、ご武運をお祈りいたします」
彼は溜息とも失笑ともつかない息をつき、言葉を吐き捨てた。
「今まで本しか持たなかった僕が銃を持って、何になるというんだろうね。こんな僕を兵隊にしようとするなんて、日本の武運は尽き果てているよ」
穏やかな彼が激しい口調でそう言うのを聞き、母は狼狽した。母のその様子を見て、彼は少し後悔したように「ごめん」と呟いた。
「君にこんなこと言っても仕方がないのに」
母はどうしてよいのかわからなかった。
「ご無事をお祈りしています。必ず帰ってきてください」
母の口からは、そんな言葉がついて出た。日本のために命を賭して戦わんと声高に叫んで出征する若者が美しいとされる世情だったが、母は、彼には第一線などに出ず無傷で戻ってきてほしかった。
彼はようやく目に優しい光を湛えて笑い、「ありがとう」と言いながら、母の栄養失調で痩せ細った身体を抱き寄せた。彼は一瞬母に口づけをするような素振りを見せたが、躊躇い、唐突に母の身体を放して踵を返し、境内を横切って去ってしまった。母が言うには、お互いに心を残すような行為はやめた方がいいと彼が思ったに違いないが、母にしてみれば心身ともに彼に向けて投げ出してしまってもよいとすら思っていた。その夜母は一睡もできず、翌日出征する彼を駅に見送りに行ったときには目が真っ赤だったという。

出征してから、彼がどこで何をしたのか、母は知らない。兵士がどこに居るのかなんて知らされるはずもないし、もし彼の家族が本人からの手紙で知ったとしても母は教えてもらえるような立場でもなかった。南洋の混戦、東京の大空襲、二発の原子爆弾、そんなニュースが流れるたびに、母は彼が巻き込まれていやしないかと肝を潰していた。優しい彼がどんな地獄に彷徨っているのかと想像するだけで、涙が出てきた。戦争がようやく終わっても、彼が帰ってきたという噂は聞かない。心配で胸が張り裂けそうだった。
あるとき、母が買出しのため闇市をうろついていると、急に呼び止められた。
「そこのあんた。あんただよ、そう、あんた」
振り向くと、路上に乞食の老女が座り込んでいる。恵んでやるほどの金も食べ物も持ち合わせてはいない。母は急いで立ち去ろうとした。
「あんた、誰か近い人が死んだだろう?」
乞食に言われ、母は飛び上がって驚いた。両親や親戚は戦中と変わらず細々と農業を続けているし、生死を心配するような相手は、母にとっては出征した大学生以外思い当たらなかった。
「どうしてそんなことが?」
母が訊ねると、乞食はにやりと笑って答えた。
「あんたの足の魚の目、よくないね。それができている人は、大抵周りの誰かが死んでいる」
そう言われて、ちびた下駄を履いた足を見た。確かに、ここ数日右の足裏にいくつか魚の目ができていた。母は、乞食にもっと詳しく訊いてみたかったが、決定的なことを言われるのも恐ろしく、慌ててその場から逃げ去った。
間もなく彼の実家はどこかへ引っ越してしまい、彼がどうなったか確かめる術はなくなってしまった。
母にも魚の目の真偽のほどはわからないという。

 

祖母が死んでから、私はあまり外に遊びに行かない子になってしまった。

祖母に代わって家事をする必要があったからだ。もともと外で遊ぶことがそんなに好きでもなかったので、私は苦痛に思うどころかホッとしていた。
どうしておとなというのは外で駆け回る子どもが好きなのだろう。父も、学校から帰って洗濯や掃除や料理をしている私が心配になったらしく、「家事はお父さんもやるからいいぞ」と言っていた。けれど、父も忙しい。私は「別にいい」と言って構わず家のことをやっていた。同級生とやるままごとなんかじゃなく、本当の家事をしている自分がちょっとおとなっぽく思えて自慢だった。

そんなある日、父が仔犬を連れて帰ってきた。柴犬によく似た茶色い仔犬。父が言うには、会社の同僚の家の犬が産んだらしい。雑種の仔犬じゃペットショップも引き取ってくれず、飼い主が困っていたそうだ。見かねた父は、オスの一番小さい子を引き受けてしまったらしい。父の両手にすっぽりと乗ってしまいそうなくらい小さな犬。父に渡されて試しに抱いてみたら、私の抱き方が不安定で怖いのか最初は少し暴れていた。でも、しばらくすると私にしがみつき、その小さい顎を私の肩に乗せて寛いでいた。私は、その仔犬にチャミと名づけた。
父は、おそらくずっと家にいる私を心配してチャミをもらってきてくれたんだと思うけれど、それはまったく逆効果だった。私はそれまで以上に家に、チャミと一緒に居続けた。学校で友達が放課後ドッジボールに誘ってくれても、誰それちゃんのおうちで遊ぼうって盛り上がっても、私は全部断って真っ直ぐに家に帰った。まるで、愛しい妻が家に待つ新婚の夫のように。
庭に、赤い屋根の犬小屋を与えられたチャミは、私が帰ると必ず嬉しそうに出迎えた。ちぎれそうな勢いで尻尾を振って、ときどき堪えきれずにワフワフと吠えた。でも、たまにぐっすりと昼寝をしていて私の帰宅に気づかないことがあった。私は足音を忍ばせてチャミに近寄り、鼻をひくひくさせながら眠る茶色の仔犬を眺めた。それでも、ふとした拍子に──例えば私の運動靴の下で鳴る砂利の音とか──で飛び起きたチャミは、半分寝ぼけながら全身で喜びを表現して、私を盛大に出迎えてくれるのだ。

ときどきは、同級生がチャミを見に遊びに来ることもあった。
「可愛い! 小さい!」
小学生の女の子達は、皆チャミを見て嬌声を上げた。引っ込み思案なチャミは、私のお出迎えをすっかり忘れて、目をまん丸にして怯えている。
「これ、柴犬?」
「ううん、雑種」
「雑種かあ」
柴犬か雑種かが、どうだって言うんだろう。その子は、「うちの子はゴールデン・レトリバーなんだ」と自慢げに言っていたけど。
女の子達はひとしきりチャミを撫でたり抱いたりしたけれど、皆じきに飽きてしまった。チャミはずっと怯えて震えているか、低く唸ることしかしなかったから。一緒にボール投げをしたり散歩したりするという少女達の期待をしっかり裏切った。
皆が帰った後、チャミは決まってほっとしていた。ああ怖かった、というような顔をして、ちょっと私を恨めしそうに見るのだ。私は、そんなチャミの様子が好ましかった。私にしか懐かない存在、それがこんなに気持ちいいものだと初めて知った。

無口な父と無愛想な娘の生活は、チャミにずいぶんと救われた。ともすればまったく会話のない──まるで倦怠期の夫婦のような生活になるところを、チャミに関するちょっとしたことで会話が始まって広がった。
「新しいドッグフード、チャミはあんまり好きじゃないみたい。残していた」
「今日は会社の女の子に、チャミにってジャーキーをもらったぞ」
「角の白い家、マルチーズを飼い始めたの。チャミが吠えてた」
「今週の日曜は、一緒にチャミの予防接種に行こう」
などなどなどなど。

チャミはものすごい勢いで大きくなって、成犬になってしまった。おとなになっても大きさはせいぜい柴犬くらいだったけど、小学生の私にはだんだん抱っこが難しくなっていった。チャミは最初はどたどたと弾むように走っていたのが、一年もしないうちに全身を躍動させて颯爽と駆け回るようになった。チャミ、なんて愛らしい名前をつけて悪かったかな、と思ったことをよく覚えている。
私は、溌剌と動き回るチャミを頼もしく見ていたけれど、父はそうではなかった。
「そのうち老いていくんだろうなぁ」
居間のガラス戸から庭で元気よく走るチャミを見て、ある日曜の朝父はそんなことを言った。寝起きの父はパジャマのままで、無精髭が顎に伸びている。私は、ちゃぶ台に少し焦げたトーストと温めたミルクを並べていた。
「何言っているの。チャミはまだ一歳だよ?」
「犬の一歳は、人間でいえばもうおとなだよ」
「知ってるよ。チャミはもう梨香より年上なんだよね」
「すぐに、お父さんより年上になるさ」
トーストの皿の横に置いた新聞に手を伸ばさず、父はしばらくチャミを見ていた。私は、父の言っていることがよくわからなかった。老いる、ということがまだよくわかっていなかったのだ。
祖母は自分の記憶の限りはずっとおばあちゃんで、若い頃があったことなんて想像もできない。父の若い頃ですら想像できない。最初っからおじさんだったんじゃないかと思える。自分も、背が伸びたりはするんだろうけれど、この先大して変化がないのではと思っていた。

父の言葉が理解できたのは、数年後だ。チャミは、成長の速さと同じだけのスピードで年寄りになっていった。散歩の距離が短くなって、走り回る持続力が落ちていって、眠る時間が長くなって、好奇心が薄れていった。あんなに好きだったのに、私とボール遊びや追っかけっこをすることも減っていった。若いときは、こっちが音を上げるほど遊びたくてまとわりついてきたのに、年取ってからは私が誘っても「仕方ないな」なんて様子でやっと立ち上がる。
それはとても哀しくて淋しいことだったけれど、私も中学に上がって高校に入って、勉強だの恋だの忙しくなっていったから、さほど不都合なことではなかった。補修を終えて日がとっぷり暮れてから家に帰ると、日に焼けて赤色が剥げてきた犬小屋でチャミが静かに寝ている。昔はまるで生き別れの親子が出会ったときみたいに、数時間ぶりの再会を喜んだものだけどなぁ、なんて思いながらチャミが寝ているのを見るのが日課になった。
そして、ときには昔みたいに、チャミの傍に寄ってチャミの寝顔を眺めた。チャミの寝顔を見るというより、チャミがきちんと息をしているか確認するために。チャミは私に気づくと、少し目を上げて「帰ったのか」という風に私を見る。そして、また眠る。

チャミが死んだのは、私が高校二年生の冬のことだ。
雪の日、犬小屋では寒いだろうと、チャミを玄関の三和土に入れてやっていた。夜何も食べずに寝ていると思っていたら、朝にはもう雪のように冷たくなっていた。私は学年末試験の勉強でずっと起きていたけれど、チャミは私を一言も呼ばなかった。

私は、チャミが長くないのを数日前から知っていた。左足に魚の目ができていたから。
それは、父には言わなかった。