雨が降り始めた。

 

通気孔から、パタパタという音が聞こえてきた。なんとなく湿った匂いが鼻腔にまとわりつく。
違う、もしかすると、ずっと前から降っていたのかもしれない。私が気づかなかっただけで。

だって、気づく暇なんかなかった。彼と抱き合っているときには、そんなこと考える余地なんてない。雨の音を聞いている時間なんてない。

聞こえてくるのは、私の喘ぐ声。肌が擦れる音。彼の溜息。粘膜の響き。私はそれに夢中になっている。

匂いだって、私の鼻は彼の肌にほぼぴったり寄り添って、雨の匂いを嗅ぐ暇なんかなかった。
お互いの汗でずいぶん部屋の空気が湿っていると感じていたけど、雨のせいもあったんだ。

でも、どこかで冷静に、私ったらなんてバカげた声を出しているんだろう、と観察している私がいることにも、ちゃあんと気づいてる。勿論。

私の上で死んだようにぐったりしている男の背中をそうっと撫でながら、私は愛おしい気持ちで雨の音を聞いていた。でも、私が今愛おしいと思っているのは、この男なんだろうか。それとも雨の音なんだろうか。

昔から、雨は好きだった。子どもらしくない、と母親はよく眉をひそめたものだけど、私は家の中で過ごすのが大好きだった。
そんな子どもにとって、雨は外に出なくていいよと言ってくれる唯一の味方になる。太陽から隠れて遊ぶのは、子ども心にも背徳の行為のような、後ろめたい気持ちがあったものだ。燦々と太陽の光が降り注いでいるのに、部屋の片隅で絵本を読んでいる方が好きなんて、なんだかバチあたり。
雨はそういう気分を流してくれる。しとしとと湿るような雨も。乱暴なまでの土砂降りも。

「雨だわ」

汗ばんだ彼の首筋を撫でながら、そっとつぶやく。
私は上手に囁くことができない。彼とベッドで過ごすとき、彼はびっくりするほど上手に私の耳元で囁くけど、私は自分の声がうまくコントロールできない。そっとつぶやいたつもりだったのに、ずいぶん大きな声になってしまって、私たちの荒い息だけが音楽のように響いていた部屋の空気をいっぺんに現実的なものにしてしまった。

「え? 雨? ……本当だ」

いつも、一通り抱き合った後、彼が何を考えているのか私にはさっぱりわからない。たった今した行為の一つ一つに満足しているのか、それとも帰る段取りを計算しているのか。

首に軽くまとわりついていた私の腕を振り払い、彼はベッドの上に仰向けになった。深い溜息とともに。
すぐに帰ると言い出すかと思ったら、目を閉じて、じっとしている。
私は、頬杖をついて彼の顔を眺めた。男が芯から疲れきって、ベッドで無防備になっている姿を見るのは好きだ。そんなに疲れるほどに、私を満足させたかったのね。

少し汗ばんでいる、彼の高い鼻に唇を近づける。彼は、片目を薄く開けた。
彼は腕を伸ばし、私の背中をとらえて、自分の頬を私の胸に押しつけた。

「結構強く降っているなぁ」

やっぱり帰る算段をしているようだ。

身体の火照りが引いてくると、汗が冷えて少し寒く感じる。ベッドから半分ずり落ちそうになっている羽毛布団を左脚で引っ張り上げ、二人の肩に覆うように被せた。彼はまだ暑いらしく、片腕を布団から出して、布団ごと私を抱きしめた。

「あのときも、ずいぶん強い雨だった」

布団と私の胸に挟まれて、くぐもるような声で彼が言った。

一瞬何のことかわからなくて、彼の左の肩をくるりと撫でた。

「ああ、夏の」

彼が、ふん、と鼻を鳴らす。私は、つい笑ってしまった。
何笑ってるの、と、また胸元から声がする。ふふふ、と私は笑って答える。
だってまさか、あの日のことを今思い出しているとは、思いもよらなかったから。

 

彼が私の部屋に初めて来た時は、最悪の天気だった。朝からテレビのニュースでは、観測史上何番目に強い、という言葉を何度聞いたかわからないくらいの台風の日。
雨は好きだけど、出かけるときはちょっと嫌になる。だって、雨の日に履ける靴って限られる。今年買ったばかりのベージュのミュールはもったいなくて使えない。そろそろ買い替えなきゃと思っている黒のストラップのパンプスにしておこう。スーツもベージュじゃ濡れると変色しちゃう。紺色にしておこう。前の晩から考えていたコーディネートが、一瞬で崩れ去ってしまう。

私は、徒歩で通勤している。通勤時間というものは、人生の無駄遣いだ。満員電車で揺られている時間、他にもいろいろやることがある。味噌汁をゆっくり作ったり、学生時代の友達からのメールに返信したり、美白に効く化粧水をじっくり顔に押し込んだり、お風呂のカビを取ったり、他にもいろいろだ。
そう思って、会社から近いマンションをわざわざ選んだ。十分も歩けば通用口に到着する。でも、その日は、それだけの時間なのにレインコートがびしょ濡れになって、靴がじんわり雨に滲みてしまった。

そんな天気だから、昼を過ぎると新幹線が徐行運転を始めた。JRのサイトを睨みながら、私は溜息をつく。今日の出張はキャンセルした方がいいかもしれない。隣の室にいる彼が、私の席の傍を通り過ぎるとき、めざとくそんな様子の私を見つけた。

「今日、出張に行くつもり?」

給湯室の帰りらしい。彼の手のコーヒーカップから、湯気が立ち上っている。

「どうしようかな……と思っているところです。やめておいた方がいいかしら」

「やめておけば。私はやめるよ」

「今日出張だったんですか?」

「うん、大阪。でもさっきキャンセルした。新幹線の中で閉じ込められたら、どうにもならないし」

私の机の横で、彼は立ったまま一口コーヒーをすする。コーヒーの香りを嗅ぎながら、私は忙しく仕事の段取りを考えた。今日キャンセルした場合の今後のスケジュールへのシワ寄せと、今夜新幹線に閉じ込められた場合の疲労を天秤にかける。

「そうですね、私もやめておきます」

そうした方がいいよ、と言いながら、彼は自分のデスクに去っていった。

やれやれ。スケジュール調整からやり直しだ。深い溜息をついてから腹をくくって、関係各所に電話をしようとアドレス帳に手を伸ばすと、一通メールが入った。

彼からだ。

──今夜出張がなくなったなら、呑みに行かない?

彼とは、他の部員含めて何人かで呑みに行ったことはあるけど、二人では、ない。

どういうつもりなのかしら。

パソコンの画面を眺めながら、しばらく考えた。でも、確かに出張がキャンセルになると夕方からの時間が恐ろしいほどぽっかり空いてしまう。それに、今週は仕事が忙しかったから、週末に食材の買出しをしていない。冷蔵庫の中身が空っぽなのだ。彼の提案に乗って、夕食をご馳走してもらうのも、いい考えかもしれない。

──時間は確かに空きますが、こんな天気ではお店が開いていないのではないのでしょうか。

イエスともノーともつかない返信をすると、即レスがきた。

──開いているお店を探しておきます。仕事が終わったら部屋で待っていなさい。電話します。

また、私は戸惑いながらパソコンの画面を見つめた。面倒なことになったなぁと思いながら、どこかでウキウキしている気もする。
彼と話すのは嫌いではないし、むしろ好きだ。でも、二人で会うような関係になるのは、とっても面倒なことだと思う。
いや、でも、私が一人でやきもきしているだけで、彼もぽっかり空いた夜を持て余しているだけかもしれない。本当に、閑散とした店に繰り出して、美味しいお酒を呑みながら台風のピークをやり過ごす、なんてことがしたいだけかもしれない。期待するような、期待を否定するような、複雑な気持ちで「わかりました」と一言だけ返信した。

彼のことは嫌いではないが、こんな誘いをチャンスだと思って浮かれるほど(そして自分から積極的に誘うほど)好きではないことは確かだ。そして、彼もそこまで私のことが好きだとは思えない。今後はわからないが、少なくとも今日は時間が空いているだけだろう。

夕方、オフィスは次第に人が少なくなって(みんな電車が止まる前に帰ってしまった)、活気のないフロアで仕事をしているのがバカバカしくなって、私も切り上げることにした。レインコートはまだ乾いていない。部屋を出る直前に彼をちらりと見ると、彼はこちらを一瞥もせずにパソコンに向かっていた。

台風は勢力を増していて、朝より風が強くなっている。傘はまともにさしていると骨が歪みそうだし、靴の中はくちゅくちゅ音を立てるほど水が入ってしまっている。ふらふらしながら帰ると、いつもの倍時間がかかっていた。部屋がじめじめしているのに耐えかねてエアコンのドライをつけるけど、濡れたままの格好では冷えてくる。湿気と冷気に顔をしかめる。
いくら雨が好きでも限度ってもんがあるわ。
悪態をつきながらびしょ濡れのストッキングやスーツを脱いで、とりあえず部屋着を身につけようと洋服ダンスを漁っていると(さすがに下着までは濡れていなかった)、ケータイが鳴った。

彼からだ。

「何号室?」

「何号室って……。今マンションの前なんですか?」

「そう。雨がひどくてとてもこれ以上歩けない」

私はオートロックを解除して、慌ててTシャツとハーフパンツを着た。と、同時にインターホンが鳴る。玄関を開けると、本当にこの人傘をさしてきたのかしら、と疑いたくなるほど水を滴らせた彼が立っていた(手にびたびたの傘を持っているのを見ると、さしていたに違いないのだけど)。

タオルを渡して、彼からは上着を受け取った。こんなびしょ濡れのまま部屋に入られたら、湿気がこもってたまらない。キッチンの換気扇を回しながら、洗面所から除湿機をもってきてセットした。

部屋に入ると、彼は本棚を眺めながら頭をタオルで拭いていた。私が部屋に入ると、無邪気に微笑みかける。
私は戸惑って、上手に笑うことができなかった。

「靴下までびしょ濡れだ。タオルをもう一枚貸してもらえるかな」

スーツのパンツも、センタープレスが伸びきってしまいそうになっていた。そう指摘すると、彼は顔をしかめて、ひどい雨だ、と呟いた。

「着替えた方がいいですよ。バスローブ貸します」

「君、バスローブなんか使うの?」

ペールピンクの可愛らしいバスローブを手渡すと、彼はくすくす笑いながら服を脱いだ。カフスやタイピンや時計を外し、ネクタイをほどき、カッターシャツを脱いで、靴下とパンツを剥ぐ。

「彼氏のパジャマとか、ないの?」

つんつるてんの、ふくらはぎがほぼ丸見えになっているピンクのバスローブは、彼にとってはすごく居心地が悪そうだった。普段はスーツに隠れている彼の脛や腕を見るのは、とても新鮮だった。無駄毛が少ない、筋肉質の手足。私は暖かいアールグレイを出しながら(靴下とパンツは上着と一緒に除湿機にかけている)、彼の手足に見とれていた。

「人の物を部屋に置いておくのは、嫌いなんです」

ティーカップなんて気の利いたものはうちにはないから、私たちはマグカップでアールグレイを飲む。大きいだけがとりえの、素っ気ない白いマグカップ。最近漂白していないから、底の方に少し茶渋が残っている。彼は、ふぅん、と返事しながらカップに口をつけた。

「変なの」

さっきの雨で、すっかり崩れてしまったセットを気にしながら私が呟くと、彼は、何が? と聞いてきた。

「私たちがこんな格好して、私の部屋でお茶を飲んでいることです」

「確かに。今日は呑みに行こうって言っていたのにな」

ピンクのバスローブを着た彼は、無印良品の小さなベージュのソファに座っている。初めて来たとは思えない寛ぎぷりだ。二人座るといっぱいになる座面を、ほぼ一人で占領している。私は、所在無くラグの上にぺたんと腰を下ろしていた。

「どこか店開いてましたか?」

「いいや、よく行く店何軒か電話をかけてみたけど、つながらない。考えたら、まだ時間が早いもんな」

本当に電話をかけたのかしら。私が会社を出るとき、彼はまだ真面目に仕事をしている様子だった。そして、私が部屋に着いて、あまり時間をおかずにここにいる。

「でも、こんな雨は嫌いじゃない」

「どうしてですか?」

「じっと家にこもっていてもいいような気がする。世界で自分だけが存在するような気になる」

私は少し驚いた。
彼は、仕事の付き合いだけで見ていれば、とても社交的で社会人らしい社会人だ。世界から隔離されたような、こんな雨の日が好きだとは、ちょっと意外だったのだ。

黙っていると、彼はマグカップをコーヒーテーブルの上に置いて、私を見た。

「こんな雨が降らないと、この部屋に入れなかったかもしれないし」

言い終わるか言い終わらないかのうちに、彼は私の左手首と右肩をつかみ、自分の方に引き寄せた。狭いソファの上に、彼の上に折り重なるようにして私の身体が乗せられた。鼻先をくすぐるバスローブからはいつもの柔軟剤の香りがするので、私は奇妙なほど安心していた。

髪から雨の匂いがする、と彼が耳元で囁いた。

この人は、なんて囁くのが上手なんだろう、とその時初めて思った。

きっと自分の妻にも、こうやって何度も囁いたんだわ、とも。

この世に自分だけが存在するなんて、嘘つき。家に帰れば妻が待っている。ふかふかのタオルを差し出してくれるに違いない。こんなピンクの小さいバスローブじゃなくて、きちんと洗濯されて彼の身体のサイズにあったパジャマを用意してくれるはずだ。

Tシャツの裾をまくる彼の指は、雨の中を歩いた後にも関わらず、アールグレイですっかり温められていた。

 

「何を笑っているの」

私の胸から顔を少し上げて、もう一度彼が訊いた。

「あの日のことをあなたが思い出しているとは、思わなかったのよ」

彼の耳たぶを撫でながら答えた。私は耳たぶがとっても感じるのだけど、彼はそうでもないみたい。

「あの時は、本当にひどい天気だったわね」

「でもそのおかげで、この部屋に入れた」

私の乳房を撫でながら彼が言う。

「あの台風がなかったら、こんな関係になっていなかったかしら」

雨どいの軽いパタパタという音を聞きながら、訊いてみる。答えはどうでもいいのだけれど。

「さあね。あの台風じゃなくても来たかもしれないし、来なかったかもしれないし。どっちにしても、いつかこうしていたかもしれない」

ほぼ思った通りの答えに、私は薄闇の中でこっそり微笑む。いつも、そう。熱のこもったセックスをするのに、この人はどこに心があるのか捉えがたい。妻にだけは情熱を注ぎ込むのだろうか。いや、それはない。雨に降り込められるのを好む人が、他人とそんなに近い距離を取りたがるはずがない。

私がそうだから、よくわかる。

彼のことが死ぬほど愛おしいような気もするけど、これ以上のめり込まれたら迷惑だと思う。彼は、少なくとも私のそんな距離感を愛しているに違いない。

「さて、名残惜しいけど」

唇と唇をそっと重ねる。私は少し意地悪な気持ちになって、腕と脚を彼の身体中に巻きつけて、彼の唇と舌を舐めてみる。彼は、ふっといやらしい笑みをこぼして、指を素早く私の全身に回した。セックスの後の私の身体が敏感になっているのを、知っていて。力が抜けている私は、腕も脚も簡単にほどかれてしまった。

「また来るよ」

彼が身支度するのを、私はベッドの中からじっと見つめる。普通、愛人はこの瞬間、耐え難いほど哀しくなるんじゃないかしら。私は、きちんと筋肉が発達した上腕がシャツにくるまれていくのが残念になるだけだ。

今日は私がピンクのバスローブを羽織る。彼はすっかり何事もなかったように、きちんとネクタイを締めている。会社で見る彼と何も変わらない。

「俺のバスローブも用意しておいてよ」

玄関を出る前に、彼は私の腰に手を回して、もう片方の手でバスローブの襟元から鎖骨と乳房を撫でた。

「嫌よ」

さっき、ベッドで出したねっとりした喘ぎと正反対の乾いた声で答える。

「人のそういう物を、部屋に置いておくのは嫌いなのよ」

彼は苦笑して、手を離した。

また来るよ、ともう一度言って、もう一度軽くキスをした。今度は、私もおとなしく目を閉じるだけにしておいてあげる。

お互い、じゃあね、と小さく手を振って、玄関のドアを閉め鍵をかける。
覗き穴から見ていると、彼はきっぱりとした足取りでエレベーターに乗り込んだ。

部屋に戻ると、私以外の何の気配もない。雨の音と、かすかな湿気。バスローブを脱ぎ、スウェットスーツを着込んで、ベッドに潜り込む。ピローケースから彼の肌の匂いがする。私はそれを大きく吸い込んだ。

彼の肌の匂いがたまらなく愛しいような気もするし、ものすごく邪魔なような気もする。

きっと、今頃雨の中、彼は自宅に電話をしているに違いない。その後、私にメールをしてくるはずだ。おやすみなさい、とか、今日のお前も最高に気持ちよかった、とか、そんな内容。でも、きっと私からも妻からも解放されている、この時間は彼にとってはとても心地いいことに違いない。

ベッドからどんどん彼の体温がなくなって、私だけの温もりになっていく。私はとても安心して、目を閉じる。

 

雨の音が、ぱたぱたと響く。

雨に降り込められた私の部屋は、とても静かで居心地がいい。