今日も何の変哲もなく 3

浴槽の栓をして、お湯張りのボタンを押す。

ポローンという音の後に「湯張りします」という耳障りな電子音。一呼吸置いて、浴槽にお湯が流れ込み始める。
私はそれを確認して、蓋を浴槽の上に広げた。

今日は寒い。お湯が入るまでの十分間は浴室暖房をつけておくことにした。そろそろガス代がかかる季節だ。日も短くなるし、いろいろと憂鬱な季節。
お風呂の支度ができるまでの間、私は寝室で取り込んだまま放ったらかしにしていた服をクローゼットに片づけることにした。
グレーのジャージのパーカー。ブルージーンズ。アンダーシャツ二枚。ダークグレーのハイネックのセーター。チェックのコットンシャツ。それに下着と靴下。
ずいぶんカジュアルな格好だ。
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今日も何の変哲もなく 2

コットンとポリエステルの長袖Tシャツ。ボトムはストレッチの効いたデニム。それにウィンドブレーカーを羽織って、日除けに帽子を被る。足元はスニーカー。
近所を散歩するだけだと、こんな格好になる。

以前勤めていた会社の人には見られたくない姿だ。一応毎日小奇麗にしていたから、ギョッとされるだろう。顔なんて、日焼け止めを塗っただけで眉すら書いていないから、私だと気づかれないかもしれない。
私は玄関でスニーカーの紐をきゅっと結んで、帽子を深く被った。玄関の扉を開けて外に出る。鍵をかけて、ウィンドブレーカーのポケットに入れ、ファスナーを閉めた。反対側のポケットには小銭とiPhoneが入っている。歩くと鍵と小銭がちゃらちゃら鳴ってうるさいが、これ以上持ち物は減らせないので仕方ない。

エレベータでマンションのホールまで降りる。
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今日も何の変哲もなく 1

午前九時。

平日の朝は、マンションの前にどこかの幼稚園のお迎えのバスが来るらしい。若い女の「おはようございまーす」という高い声と、さらに甲高い子ども達のはしゃぐ声。それから数十分にわたって繰り広げられるママ達のお喋り。毎朝、耳に入ってくる。

私はそれをベッドの中で聞く。
柔らかい羽毛布団。パイル地のシーツ。それと同じ素材の枕カバー。私は瞼も上げずに、ただひたすらパイル地の触り心地を頬や手首や足の裏で堪能する。そしてママ達のお喋りが聞こえなくなった頃、またうとうとする。
まどろみの中で夢を見る。
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かぐやひめのものがたり 十六 輝夜姫は

中将様、お忙しいところわざわざ弘徽殿にまでお越しいただきまして、恐れ入ります。
飛香舎の方へは……? 左様でございますか。いえ、飛香舎より先にこちらにお越しになるようですと、中宮様のご気分を害してしまうのではと心配いたしまして。

一の宮様、二の宮様。中将様はお母様とお話がございますの。後で遊んでいただきなさいませ。誰ぞ、宮様方をお連れして。しばらく人払いさせなさい。
ほんに宮様方は中将様によく懐いていらっしゃる。中将様に直に仰いませんけれど、女一の宮様も中将様が弘徽殿にお越しになるのを楽しみにしていらっしゃいますのよ。大人におなりあそばしたら中将様にご降嫁になってはいかがと申し上げますと、可愛らしい頬が赤く染まりますの。たいそう愛らしゅうございますよ。
本日は尚侍様に贈り物を、と……? まぁ、何でしょう。
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かぐやひめのものがたり 十五 車持皇子は

中将殿、珍しいこともあるものだな。
急な来客というからてっきり蔵人頭あたりかと思うていたが、そなたが我が家に訪ねてくるなぞ初めてのことではないか?
あの一件以来、私を訪ねてくる者はずいぶんと減って静かになったものだ。それが中将殿のようなお珍しい客人をお迎えするとは、不思議なものよ。

どれ、あとはよい。人払いをしてくれ。何かあれば呼ぶ。

輝夜姫が後宮に入って、そなたや父君はさぞや困っておろう。なに、中宮様も大変お嘆きと? 左様であろうな。今まで対立する女人なぞおらぬゆえ、さぞや心穏やかなお暮らしだったに相違ない。それが突然あのような女人に後宮生活をかき乱され、お気の毒というよりほかにない。
そなたの父君、関白太政大臣のことだ。未来の国母にせんがため、さぞや姫君を慈しまれ、大切に育てなさったことだろう。それがこんなことになってしまい、ふふふ、慌てふためく様子が目に浮かぶ。
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