今日も何の変哲もなく 1

午前九時。

平日の朝は、マンションの前にどこかの幼稚園のお迎えのバスが来るらしい。若い女の「おはようございまーす」という高い声と、さらに甲高い子ども達のはしゃぐ声。それから数十分にわたって繰り広げられるママ達のお喋り。毎朝、耳に入ってくる。

私はそれをベッドの中で聞く。
柔らかい羽毛布団。パイル地のシーツ。それと同じ素材の枕カバー。私は瞼も上げずに、ただひたすらパイル地の触り心地を頬や手首や足の裏で堪能する。そしてママ達のお喋りが聞こえなくなった頃、またうとうとする。
まどろみの中で夢を見る。

それは大抵、とてもリアルで、気持ちの悪い夢だ。忘れたい出来事とか思い出さないようにしていた人とか、脳細胞の奥から掬い上げられて、眼前に──私は目を瞑っているのだけれど、それはもう本当に目の前で起こっていることかのように容赦なく突きつけられる。パイル地の心地良さは、悪夢の中では何の役にも立たない。

 

午前十時。

夢から現実に戻ったことに気づいて、ちょっとだけ瞼を上げてみる。

寝室の中は真っ暗闇ではなく、カーテンの隙間から光がこぼれてほんのり明るくなっている。
天井を見ると、ペンダントランプが目に入った。IKEAで買った籐のランプシェード。気に入っていないわけじゃないけれど、もうそろそろ肌寒くなってくる季節に見ると間抜けな気がする。もっとシンプルで、季節感のないシェードを買ってこよう。

私は、観念して布団から身体を起こした。
かすかに頭が痛い。喉も乾いている。
ダブルベッドから足を下ろした。床のフローリングがひんやりしている。私は、だらしなく脱いであったコットンのスリッパを足で探って、履いた。中敷きがへたって、心許ない履き心地。これもそろそろ買い替えた方がいいのかもしれない。もっと温かいやつに。
寝室には、小さなデスクを置いている。それと、壁一面の本棚。寝る場所も勉強する場所も一緒くたで、学生の部屋みたいで落ち着かない。嫌な夢を見るのはそのせいかもしれない。
デスクの前にある窓のカーテンを引いた。
秋晴れの日差しはとても強力。寝室に漂っていた薄寒さを吹き飛ばす。
ついでに、窓を開けた。乾いた風はひんやりしているけれど、日向の空気は温かい。ベッドの中でうつらうつらと聞いていた音がクリアになった。車やバイクの音、子どもが叫ぶ声、どこかの部屋からは掃除機のモーター音。私は伸びをした。

寝室を出てキッチンに行く。
食器棚のガラス扉を開けて、大き目のマグカップを取り出す。誕生日にもらったムーミンのマグカップ。とりあえず、それに浄水器から直接水を汲んで、カップ一杯の水を飲み干す。風邪を引いたかと思うくらい乾燥していた喉が落ち着いた。
薬缶に水を入れ、のっぺりとしたIHコンロに乗せてスイッチを入れる。
お湯が沸く間に、リビングのブラインドを上げて窓を開けた。昨日から淀んでいた空気が流れて外に出ていく。やっぱり午前中に起きるのって大事だわ、と思う。
キッチンに戻って、食器棚から紅茶のティーバッグを取り出した。誰かからお土産にもらったトロピカルなフレーバーのお茶。格別好きでもないけど、捨てるほど嫌いなわけでもなく、気がついたときに消費するようにしていた。でも、暑い間には飲み切れなかった。ひとり暮らしではお茶の消費量なんて高が知れている。
ムーミンのマグカップにティーバッグをひとつ入れ、薬缶から熱湯を注ぐ。淡白なお湯がみるみる琥珀色に染まって、何となく南国風な香りが漂う。ティーバッグをちょいちょいと揺らして、三角コーナーに放り込んだ。ゆっくりと一口すすってみると、ほんのり酸味と甘みが混じって戸惑ったような気分になる。この手のフレーバーティーはどうも好きになれない。

好きになれないお茶を飲みながら、朝食兼昼食を作ることにした。

ご飯は冷凍してある。納豆もある。昨日のほうれん草のお浸しの残りもある。卵を焼いて、味噌汁を作ることにした。味噌汁は手っ取り早く豆腐とワカメとネギ。
片手鍋に水を張って、コンロで火に──と言ってもIHだけど──かける。まとめてミルで引いた煮干しの粉を鍋に入れて、豆腐をざっくりと賽の目にして鍋に入れる。ワカメは乾燥ワカメ。これも鍋に直接入れる。
卵は出汁巻きにすることにした。ボウルに卵を割り入れて、白出汁を少し垂らす。空いている方のコンロに小さなフライパンを乗せて、スイッチを入れる。サラダ油をフライパンに引き、キッチンペーパーで広げる。
菜箸の先を卵液に付けて、フライパンに付ける。箸の先の卵液が「じゅっ」と鳴ったら焼き頃だ。卵液の三分の一を一気に流し入れる。すぐに菜箸で掻き回して、空気を含ませる。卵の端っこが固まってきたら箸で畳みながら手前に寄せ、空いたところへキッチンペーパーに付いたサラダ油を塗る。そして卵液の三分の一を流し込む。寄せておいた塊をちょっと持ち上げて、その下にも卵液が流れるように少しフライパンを傾ける。同じように卵液を掻き回し、畳みながら手前に寄せる。残りの三分の一も同じように。どうせすぐに食べるものだし、食べるのは私だけだし、形の崩れや焦げは気にしない。
小さなまな板で万能ねぎを刻んだら、味噌汁の鍋に味噌を溶き入れる。味噌漉しは持っていない。ひとり分の味噌汁を作るには、あの深い味噌漉しは向いていない。お玉の上に味噌を乗せて、それを菜箸で溶かしていくだけ。火を止めたらネギを散らす。
解凍したご飯を茶碗に盛り、納豆と一緒にリビングの隅の小さなダイニングテーブルに運んだ。それとほうれん草のお浸しが入ったタッパーと、味噌汁が入ったお椀。卵焼きは食べやすい大きさに切る。端の形が崩れた部分は、キッチンで立ったままつまみ食い。これが一番美味しい気がするから不思議だ。
うちのダイニングテーブルは、小さな正方形。折り畳み式になっていて、開くと四人で使える長方形になる。でもほとんど開いたことはない。ほとんど常に壁に寄せて、正方形のまま使っている。
狭い天板の上にはいろんな物が置いてある。
ダイレクトメールが何通か。ビタミン剤の容器。昨日の夜使ったグラス。美容液のサンプル。フィナンシェ。
私はそれらを壁に寄せて、朝食を並べた。
納豆は、発泡スチロールのパックのままかき混ぜる。出汁醤油を切らしているので、付属のタレを入れた。甘くてあまり好きではないけれど。
窓の外からはいろんな音が聞こえてくる。どこかの部屋のテレビの音声、風に揺れる木の葉のさわさわと鳴る音、自転車のベル。
私はテレビもつけず音楽も鳴らさず、混沌とした静かな騒音をBGMに朝食を食べた。
ひとりで摂る食事には、案外早く慣れた。

食器と調理用具を予備洗いした後に食洗機に入れる。洗剤を入れて、スタートボタンをオン。
シンクとコンロは洗剤を含ませた布巾で拭いて、それから丁寧に乾拭きする。生ゴミはビニール袋にまとめて蓋付きのゴミ箱へ。
布巾とタオルを持って洗面所へ行った。籠に入っていた昨夜使ったバスタオルと一緒に洗濯機に放り込む。
電動歯ブラシに歯磨き粉を付けて、口に押し込みスイッチを入れる。無遠慮な振動が顎を揺らす。
洗面台の鏡に映っている私の顔は、お世辞にも美しいものではなかった。むくんだ瞼。目尻の皺。寝癖のついた髪の毛。髪には、白いものが混じっている。そういえば、半年くらいカラーリングをしていない。そろそろ行かないと、と思ってから、誰かに会うわけでもなし急ぐこともないか、と思い直した。
洗面台に置いてあるプラスチックのコップで口をゆすぐ。それから、髪の毛をクリップとターバンで留めて、洗顔。そろそろ水で洗うには冷たくなってきた。会社に行っていたのなら、とっくにお湯で洗っている季節だ。この季節の早朝に水で洗顔は、さすがにつらそう。
新しいタオルで顔の水滴を取った後は基礎化粧だ。化粧水、保湿美容液、乳液。ついでに指の腹でこめかみや頬骨を押すと、ちょっとむくみがマシになる。
それでも、衰えは消えない。目の下の隈、口周りの弛み。ここ半年くらいで一気に老けた気がする。
──気がするだけで、案外ずっと前からこんなものたったのかもしれない。忙しくて自分で気づかなかっただけで。
「もう三十五だもんなあ……」
掠れた声で独りごちた。こんなくだらない独り言でも、言っておかないとひとり暮らしでは喋る機会がない。
使ったタオルは鏡や洗面台を拭いてから洗濯機に入れ、ついでにパジャマも脱いで放り込んだ。パンツ一丁のまま洗濯機のスイッチを入れて、洗剤を投入する。
それから急いで寝室のクローゼットへ服を取りに行った。裸でうろうろするには、少し涼しすぎる。

 

午後三時。

ブラインドがかさかさと鳴る音、幼稚園のバスから降りてくる子ども達の甲高い声、どこか遠くから聞こえる工事の音。

リビングのソファで眠っていたようだ。読みかけの文庫本は腹の上にある。
白い天井にはいくつもダウンライトが埋め込まれている。この天井の高さで電球が切れたら、どうやって交換すればいいんだろう。うちには脚立がない。

身体を起こすと、かすかに頭が痛い。
外から入ってくる風は、温かさよりも冷たさが勝っていた。全開にしていた窓を引いて、数センチを残して開けておく。
聞こえてくる音が、急に減った。
部屋の中は静か。何か聞こえないか、耳で探った。
「あ、そうか」
食洗機も洗濯機も終わって止まっているからこんなに静かなんだ。
私はソファから立ち上がって、キッチンに入った。シンク下の食洗機を引き出し、中から食器や調理用具を取り出す。そしてそれらは、元のあるべき場所へ。お茶碗は食器棚へ。お玉は調理台の引き出しへ。
それから洗面所へ行き、洗濯機の扉を開けた。中に入っているパジャマやタオルはふかふかで、柔軟剤のいい香りがしている。私はふかふかの誘惑に負けて、バスタオルに鼻先を突っ込んで匂いと肌触りを堪能した。
タオルを洗面所のチェストにしまった後は、寝室の窓を閉めに行った。もう日は差し込んでおらず、ひんやりした風がカーテンを揺らしている。私は窓を閉めて錠を掛けてから、遮光カーテンも引いた。
そして、キッチンへ戻り、薬缶でお湯を沸かす。濃いお茶が飲みたい。そうすれば、多少は頭痛がマシになる。
食器棚のガラス扉を開いて、陶器のティーポットを取り出す。日本茶も紅茶もこれで淹れてしまう。茶葉は冷蔵庫の中。買ったときの包装のままドアポケットに入れてある。銅製の素敵な茶筒とか憧れるけれど、なくても不便はない。
ティーポットに雑に茶葉を入れる。ほのかに広がる苦い香り。
薬缶のお湯が沸いたら、コンロのスイッチを止めてしばらく待つ。焙じ茶は八十度、玉露は六十度。と思って沸騰したお湯は使わないようにしているけれど、正確に湯温を測っているわけではないから途中でどうでもよくなってきて、適当な頃合いでお湯をティーポットに注いでしまう。
最初はほんの少しお湯を垂らして、茶葉を蒸らす。それから一杯分のお湯を入れる。
お茶が出るのを待つ間、器を温める。
といっても常滑焼の湯呑みとかではなく、さっき食洗機から取り出したムーミンのマグカップだ。これがたっぷり飲めてちょうどいい。薬缶の残りのお湯をマグカップに注ぎ、ちょっと待ってからシンクに捨てる。
それから、ティーポットのお茶をカップに注ぐ。
ほんのり苦くほんのり甘い、いい香り。
トロピカルなフレーバーティーよりよっぽど落ち着く。
私は熱々のムーミンのマグカップを持って、リビングに移動した。ソファの前に置いてあるコーヒーテーブルに置く。
コーヒーテーブルのガラスの天板も散らかっている。目薬、ティッシュボックス、ドラッグストアのレシート、それにiPhone。今日も着信もなければ、メールもない。
小腹が空いた。
狭い家の中でゴロゴロしているだけなのに、一人前にお腹は空く。完全に腰を落ち着ける前に立ち上がって、ダイニングテーブルに置きっ放しのフィナンシェを取りに行った。
空腹のときにバターの香りは、しびれる。苦いお茶と甘ったるいバターの香り。今日一番の幸福。
ソファに腰を深く沈めて、晩ご飯はどうしよう、と考えた。
タマネギはある。ニンジンも。サトイモも。足の早い野菜は残っていたっけ。ほうれん草は食べ切ったし、セロリは……あったかもしれない。
明日はそろそろスーパーに行かなきゃいけない。卵も残り一つになっていた。
今日はサトイモでカレーにしよう。ルーはあるし、冷凍庫に挽肉が残っているはず。和風出汁を入れてホクホクに茹でれば美味しいはずだ。多めに作って明日も食べればいい。
「緑色、足りないよね……」
そう呟いて、濃いお茶を啜った。今朝のほうれん草とネギだけで野菜は足りているのだろうか。ひとり分だと面倒くさくて、ついいい加減な食事になってしまう。気軽に摂れるように、カットされた冷凍野菜を買っておこうか。でも、割高な気がして、仕事を辞めてからは使っていない。
──野菜の下拵えをする時間がないわけじゃないしね。
もう一口お茶を飲んで、ソファの上に置いておいた文庫本を取り上げた。

 

午後七時。

部屋の中はカレーの香りに満たされている。
昆布を入れて、白出汁を少し垂らした和風カレー。冷凍庫には炊いたご飯を冷凍したものが一膳残っていたので、それで食べている。明日のブランチは、これまた冷凍うどんでカレーうどんにするつもり。

テレビ台に置いたスピーカーからは音楽が流れている。古いジャズの哀しい音色。カレーにジャズもどうかと思うけど、今日はロックを聴くほど元気でもないし、クラシックを選ぶほど敬虔な気持ちでもない。
目は暇なので、ダイニングテーブルに広げた雑誌の文字を追いかけている。主婦向けの料理雑誌。秋の食卓ということで、茸と鮭を使ったレシピが中心。見ていたら鮭が食べたくなってきた。明日スーパーに行ったときに買ってこよう。

ひとりの食事は侘しい。
とは思うけど、頭のどこかでは、気楽でいいとも思っている。私じゃない誰かの食べたいものを気にしなくていいし、どんなに手を抜いても文句を言われることもない。
例えば、これが誰かに食べさせる食事であれば、彩りのいいサラダをつけようと考えるに違いない。スープだって作ろうと思うし、デザートには梨を剥くに違いない。
でも私が食べるだけなら、多少栄養が偏っていてもまあいいかと思ってしまう。カレー一皿で充分。
「ごちそうさま」
手早く食べ終えて、椅子から立ち上がった。
スピーカーのボリュームをあげて、キッチンでも聴こえる音量にする。
私はカレー皿とスプーンを持ってキッチンに入った。カレーのついた皿に水を浸す。鍋に残っていたカレーをジップロックの袋に入れて、鍋にも水を張る。皿と鍋の水をぐるぐる掻き回して残っていたカレーをすすぎ落とし、スプーンやマグカップと一緒に食洗機に並べていく。洗剤を入れてスタートボタンを押す。
そして、空になった水切り籠を布巾で拭いていく。網籠の水滴を拭き取り、水受けトレイに溜まっていた水をシンクに流してからこれも布巾で拭く。次の作業の邪魔になるので、籠はレンジの上に避難させる。
それから、コンロとシンクの掃除。濡れ布巾でザッと汚れを拭き取った後、洗剤を含ませた布巾で丁寧に拭いていく。それから乾いた布巾で乾拭き。リビングから聞こえてくるジャズよりも、食洗機の中でざばざば鳴っている水音をいつの間にかBGMにしている。蛇口も洗剤入れも拭き残しがないようにきっちり拭く。
一通り拭き終わると、私は一歩下がってキッチンを眺めた。
コンロと作業台とシンクが並んだシステムキッチン。その上には吊戸棚。シンクの前の窓はリフォームしていなくて、レトロな雰囲気の模様ガラスがはまっている。ダイヤのような星のような模様。洗い物をしながらこの模様を眺めるのが好きだ。おばあちゃんの家を思い出す。
レトロな建具とは不釣り合いに、システムキッチンは可能な限り新しい設備を入れてもらった。浄水器を埋め込んで、食洗機を入れて、コンロをIHにする。働いていると、五徳を磨く時間なんてとてもじゃないけど取れない、と思っていた。
こうして暇になってみると、キッチンの後片付けがあっさり終わって物足りないくらいだ。こんなことになるなら、リフォーム前の昭和の団地みたいなキッチンのままでもよかったのかもしれない。

 

午後十時。

湯船の中で目を閉じる。
一日中ごろごろしていたので、脚にむくみはない。その代わり、顔がむくんでいる。瞼が腫れぼったいし、顔の輪郭がぼんやりしている。
動き過ぎるのも疲れるけれど、動かなさ過ぎるのも疲れる。明日は買い出しに行きがてら散歩をしよう。五㎞くらい歩けば気分がすっきりするに違いない。

 

深夜0時。

布団の中で文庫本を繰る。
柔らかい羽毛布団。パイル地のシーツ。それと同じ素材の枕カバー。目は文章を追いながら、手や足ではパイル地の感触を楽しんでいる。
照明は、枕元のブラケットライトのみ。簡素な燭台のようなデザインが気に入っている。温かい色味の光が壁に反射し、白い壁がぼんやりとしたオレンジ色に包まれている。
あまり眠気を感じないけど、そろそろ寝た方がいいのかもしれない。明日も昼まで寝ていたら、スーパーに行くのも億劫になってしまう。
本の切りがついたところで栞を挟み、それをデスクに置いて私はライトのスイッチをひねった。

目を閉じると、闇が広がる。

窓の外からは、ほとんど音が聞こえない。ときどき遠くから車の走る音が聞こえる程度。
私以外誰も居ない部屋の中からは、もちろん音はしない。