今日も何の変哲もなく 8

午前七時。

枕元に置いておいたiPhoneが鳴る。
水野さんからのメールだ。

あれから、水野さんはときどきメールを寄越してくる。
内容は、美味しいお菓子屋さん情報。お店の名前とURLと、「ここのシュークリームは皮がさくさくで絶品です」とか「夏季限定の水饅頭がお薦めです」とか水野さんの評論。
返しようがないのでほとんどのメールはそのまま放っておくのだけれど、水野さんは特に気にしていないらしい。そのうち、また「昔ながらのショートケーキが美味しいです」なんてことを書いて送ってくる。

たまたまその店の前を通って、水野さんのお薦めのお菓子を買ったときは、私も感想を返す。それに対する返信は、大抵「それはよかったです」と素っ気ない。何を考えているかよくわからない人だ。
ただ、水野さんが早い時間にメールを送ってくるので、メールがある日は昼まで眠ることはなくなった。
私は寒いのを我慢して布団から脱出し、遮光カーテンを開ける。
冬至が近い冬の日差しは、まだ明け染めたばかり。私は眩しさに眉をひそめた。
エアコンの下で着替えて、キッチンで朝食を作る。今日は、冷凍しておいたご飯、昨日の焼き鮭の残り、これまた昨日作った豚汁。温めてからダイニングテーブルに並べ、テレビを見ながら食べる。
さて、今日も一日の始まりだ。

 

珍しく、夜に水野さんからメールが来た。
内容は「デートをしませんか」というお誘い。
私は、何度もiPhoneの画面を確かめた。
──これが若い頃なら。例えば二十歳そこそこの頃なら。
あれこれ考えたり、駆け引きをしようとしたりするのだろう。だが、私達はもうそんなに若くはない。
私は「質問です」というタイトルをつけて、返信した。

1.水野さんはおいくつなんですか?
2.独身ですか? それとも既婚ですか?
3.デートはどこに行きたいですか?

すると、間もなく返事が来た。

1.来年、四十三歳になります。
2.二年前に離婚しました。
3.梢さんの行きたいところでいいですが、〆には狂おしいほど甘いチョコレートでも食べましょう。もちろん、鯛焼きでも構いません。

大人の恋愛は、シンプルでいい。私はそう思った。

 

年の瀬が押し迫った頃、私は水野さんとIKEAへ出掛けた。
平日だから大丈夫かと思っていたら、まるでアメ横のように混んでいた。水野さんはぎっしりと並ぶ車に怯むことなく、飄々と黒いポルシェのハンドルを操作した。カップホルダーにはカプチーノ。
ようやく見つけた駐車場の空きスペースにポルシェを滑り込ませ、水野さんは「さあ、行きましょうか」とカプチーノを飲み干す。私が黒い車体に指紋をつけないようにおっかなびっくり扉を閉めていると、「そんなに丁寧に扱わなくていいですよ」と水野さんに笑われた。
「やっぱりいい車に乗ってみえるんですね」
「え?」
「社長さんの車って感じ」
水野さんは笑いながらトレンチコートを羽織った。コートの下は、黒いVネックのセーターとブルーのジーンズ。貴重品はポケットに入っているらしく、手ぶらだった。
「いい車といいスーツはね、はったりが効くんですよ。エルメスのバーキンと同じです」
「なるほど」
だけど、普通の人間ははったりだけのためにバーキンやポルシェなんて買えない。
店内の案内図を見ながら、水野さんに
「今日は何を買うんですか?」
と訊かれた。
「ランプシェードです」
寝室の、季節外れの籐のシェード。ずっとそのままにしてあって、もう冬になってしまった。
「リビングですか? それとも寝室?」
「寝室の方の」
「ああ。籐のシェードが掛かっていましたね。あれ、替えちゃうんですか」
私はびっくりした。
「よく覚えていますね」
「人の部屋はね、覚えてしまうんですよ。習い性です」
それから私達は、店内をゆっくり周った。
もっと駆け足で巡ってもよかったのだけれど、何しろ人が多過ぎてうまく歩けない。
照明のコーナーに辿りつくまでにあれこれ見てしまい、カートの中には細々とした物が入っていった。白の大きなマグカップ、派手な柄のプラスチックトレイ、カラフルなペーパーナプキン、幾何学模様のクッションカバー。
肝心のランプシェードは、真っ白な無地を選んだ。飾り気のない円筒形。
水野さんは、ベージュやグリーンのタオルを何種類か選んでカートに入れていた。ほかにも興味を持って手にした物はいくつかあるが、真面目な顔をして考え込んだ後、カートに入れずに棚に返すということを何度か繰り返していた。
買い物を一通り終えた後、私達は店内のフードコートで遅いランチを摂った。
私はパスタとサラダ、水野さんはミートボールとサラダ、それに大きなアップルパイ。
「本当に甘いものがお好きなんですね」
私は水野さんのトレイを眺めて感心した。
「その割には太らないようで、羨ましい」
「太らないようにしているんですよ」
珍しく、水野さんが眉をひそめた。
「私自身は住む場所にこだわりがないんですが、スポーツジムから近いところじゃないと無理です」
「それ、充分こだわりですよ」
私が笑うと、水野さんは眉間に入っていた力を緩めた。

その日はシネコンで映画を観て──今度はハリウッド超大作と銘打たれたアクション映画を──、少し鮨をつまんで、宣言通り甘いチョコレートケーキを食べた。
水野さんは、一日中飄々としていた。ミートボールも中トロもケーキもよく食べ、疲れも見せずによく歩き、文句も言わずに運転してくれた。特に深刻な話もしなかったし、格別口説かれたわけでもなかった。それでよかった。
デート中、私はしばしば黙り込んでいたと思う。
水野さんも、それに合わせて口を閉じてくれた。心地良い沈黙。
──私はこのおじさんを好きなんだろうか。
例えば、今日みたいな休日を何度も繰り返したくなるほどに。この先の人生、何度も巡ってくる正月を二人で迎えたいほどに。
「ねえ、水野さん」
私は窓の外を眺めながら、訊いた。
「私のこと、好きですか?」
「好きですよ」
水野さんはあっさり答えた。
「鯛焼きよりも?」
私がそう言うと、水野さんは大笑いした。
「会ったばっかりなのに、なぜ好きなのかしら」
私は水野さんの細いフレームを眺めながら呟いた。
「梢さんは、小説を何度も読まないと好きかどうかわかりませんか?」
「いいえ。最初の一回で、好きか嫌いか決まります」
「じゃあ、それと同じですよ」
と、水野さんはよくわからない説明をしてくれた。
黒いポルシェは静かに住宅地を走り、私のマンションへ近づいた。
水野さんは、かなり手前で車を停める。私がシートベルトを外して降りようとすると、水野さんが手で制した。
「あれ」
水野さんの視線の先を見ると、人影がある。背の高い男のシルエット。マンションの前の植え込みの縁に腰を降ろしていた。
──アキラだ。
かなり距離はあるが、見間違えではない。カーキのコートに覚えがあるし、何年間か夫だった人間のことを簡単に忘れはしない。
「知り合い?」
「元夫です」
水野さんは、私の横顔とアキラを何度か見比べた。
「このままどこかで時間を潰しますか?」
アキラさんは、余計なことは言わずにそれだけ訊いてきた。
「いいえ、追い返します」
私がそう答えると、水野さんはしばらく何かを考えた後、サイドブレーキを戻してゆっくりアクセルを踏んだ。
ポルシェが静かに近づくと、アキラは顔を上げた。少し痩せた気がする。
少しだけ窓を下ろすと、私の姿に気づいたようだ。アキラが立ち上がってこちらに近寄ってくる。水野さんはエンジンを切らずにブレーキを引いた。
「梢」
夢で何度も聞いた声。久しぶりのアキラの肉声は、夢の中の通りだった。
だが、ちっとも慕わしさが湧いてこない。
「何をしているの、アキラ?」
「何って、梢に会いに来たんだよ」
「用があったら弁護士さん経由でってことになっていたわよね」
アキラの顔つきが険しくなった。
ああ、またこの顔だ。離婚協議中に何度も見た顔。思い出すだけでうんざりする。
ひとりで過ごして淋しいと思ったのは確かだけれど、アキラと過ごした時間を取り戻したいわけじゃない。私ははっきりそれを自覚した。
「あいつとは別れたよ。だから戻ってきていいだろ」
「アキラくんと言ったね」
運転席から身体を伸ばして、水野さんがアキラに話しかけた。
アキラの顔が強張る。
「今梢さんは、私とお付き合いしているんだ。迷惑だから帰ってくれ」
聞いたことのない、水野さんの低い声。この声音だけで、水野さんが私の知らないような修羅場もくぐってきたと想像できる。
「誰だよ、お前!」
アキラが水野さんに向かって怒鳴りつけた。
「大声を出さないでちょうだい。──警察を呼ぶわ」
私がハンドバッグからiPhoneを取り出して緊急電話を呼び出そうとすると、アキラは走って逃げていった。
私は、ふう、と溜息をついて、iPhoneをバッグに戻す。
「お友達の心配が当たりましたね」
水野さんは運転席に身体を沈めて、静かな口調で言った。いつもの恬淡とした話し方。苛々と逆立った気持ちが落ち着く。
「ごめんなさい」
「謝ることはないですよ」
私は車の窓を上げた。車内に静寂が戻る。
「あの人が戻らないうちに、私部屋に帰ります」
「大丈夫? どこかへ避難して、警察か弁護士に連絡を取った方が」
「いいえ、大丈夫」
水野さんの言葉を遮った。
「今なら離れた場所に居るだろうし、この隙に部屋に入れば大丈夫だと思います。トランクを開け閉めするのは時間がかかるから……」
「荷物は次に会うまで預かっておくから、心配しなくていいですよ」
今度は、水野さんが私の言葉を引き受けてくれた。
「ありがとうございます」
私は周囲を見回して確認した後、シートベルトを外してドアを開けた。
「部屋に入ったら電話して」
水野さんの言葉に「わかりました」と返事をして、急いでマンションの中に入った。
オートロックを開けて、エレベータに乗る。不審な音は聞こえない。大丈夫。部屋の鍵を急いで開けて、素早く中に入った後ロックとチェーンをかけた。
家中の電気を点けた。
廊下、寝室、洗面所、キッチン、リビングダイニング。
朝出かけたときのままだ。
もうアキラはこの部屋の鍵を持っていないから当たり前なんだけど。それでも緊張していた。全身から力が抜ける。

リビングの灯りを消し、ブラインドの隙間から下の道路を見下ろす。黒いポルシェの屋根が見える。私はホッとした。
iPhoneで水野さんの番号を呼び出す。コール音が何秒も鳴らないうちに水野さんが出た。
「無事ですか?」
「ええ、おかげさまで。ありがとうございます」
「それはよかった」
水野さんの凪のような口調の中に、安堵の音色が混ざる。
「今から弁護士さんに連絡してみます。今日はもう遅いですから、明日また連絡しますね」
「わかりました。気をつけてください。何かあれば、深夜でも遠慮せずに電話して」
「はい。ありがとうございます。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
電話を切って、ポルシェの屋根を眺める。
しばらくすると、ポルシェは滑るようにして住宅地の暗闇に溶けていった。
私はポルシェの姿が見えなくなってから、ブラインドの羽を閉じた。

 

午前七時。

水野さんからのメールの着信音で目が覚める。
今日もお菓子屋さん情報だ。「ここのみたらし団子はぜひご賞味いただきたい」だって。

私はベッドから降りて、へたったスリッパを履いた。遮光カーテンを開けて外を見る。今日もいい天気。冬らしい冷たそうな青空が広がっている。
昨夜のうちに弁護士さんに連絡がついて、今日動いてもらえることになっている。
弁護士さんがアキラを抑えていてくれるうちに、ここは引き払った方がいいのかもしれない。そんな気分になっていた。
後で水野さんに売却を依頼してみよう。それと、新居の世話も。何なら水野さんの家に転がり込んでもいい、などと言ったらどんな反応をするだろうか。

「とりあえずは、朝ごはんかな」

今朝はご飯と納豆にしよう。それから、ネギをたっぷり入れた味噌汁。
どんな一日でも、私は繰り返す。食事、掃除、洗濯。風呂に入って、歯磨きをして、ベッドに入る。
繰り返すうちに、毎日同じように見える日常も少しずつ変化する。
今はわからないことも、見えてくることもあるだろう。例えば、水野さんとこの先どうなるかということも。
私は大きく伸びをして、それからキッチンへ向かった。