今日も何の変哲もなく 7

スーパーへ行く途中、道路の隅にはまだ雪の塊が残っていた。
雪が上がってから数日は晴天が続いているが、空気はひんやりとしているようで日陰の雪はなかなか溶けない。

平日の昼間の商店街は、驚くほど活気がある。八百屋、フルーツショップ、肉屋、魚屋、米屋、クリーニング店、花屋、豆腐屋、本屋、コーヒー豆専門店。仕事を辞めて暇になってからはたまにこういう個人商店を使うようになった。揚げ立ての唐揚げをおまけしてくれたり、コーヒーの試飲をさせてもらえたり、面白いこともある。
今日はいろいろと買う物があるので、スーパーへ向かった。雪で買い物をサボっていたので、冷蔵庫が空に近い。野菜も肉も卵も買わなきゃいけないし、トイレットペーパーもそろそろ買っておきたい。

曲がり角の不動産屋のショーケースには、マンションの間取り図が貼られている。
どの物件もこの近くのようだ。賃貸もあれば分譲もある。
「安くないなあ……」
築年数が古いマンションでも、いいお値段がする。改めて自分で借りたり買ったりするのはしんどそうだ。特に今の無職の状態では。
由利子の心配もわからないでもないけれど、今あのマンションの名義は紛れもなく私だし、鍵もアキラが出ていった後に取り替えたから構わないだろう。
「こんにちは。お部屋をお探しですか?」
店の入口から声をかけられて、慌てて
「いえ、見ているだけです」
と答えた。
「あ」
と、店の人が声を上げる。
何だろう、と思ってその人を見ると、私も「あ」と言ってしまった。
鯛焼きのおじさんだ。
映画館のときと同じようにパリッとしたスーツ姿で、庶民的な商店街の中では少々浮くほど。
おじさんは柔和な笑顔で
「先日はどうも」
と言った。
「こちらこそ、傘ありがとうございました」
私は慌てて髪を撫でた。
「あの、よくわかりましたね」
あのときは、街中に出かけるからと思ってそれなりにきちんとしていたが、今日はほぼすっぴんだ。服装もいい加減。安物のダウンジャケットに、安物のジーンズ、履き込んだスニーカー。
「そりゃわかりますよ。──ちょっと出てきます」
おじさんは店内に声をかけて、出入口のガラス戸を閉めた。
「お店、いいんですか?」
「いいんです。よかったら、鯛焼きでもどうですか。今度は美味しい鯛焼きです」

鯛焼き屋のおばちゃんは、焼き立ての鯛焼きをひとつずつ袋に入れてくれて、しかも小さな紙コップに焙じ茶を入れてくれた。
おじさんは、私の分の代金も払ってくれてしまった。私が財布を出そうとすると「いいんですよ」と笑われた。確かに、映画館の鯛焼きより安い。
店の前には小さな床几が置いてあって、一応赤い毛氈が敷かれている。おじさんは躊躇いなくそこに腰掛け、鯛焼きを一口かじった。
「うん、ここのは旨い」
冬の明るい日差しの中、鯛焼き屋の店頭でバッチリ決まった紳士が鯛焼きを頬張っているというのは、どうも違和感がある。六本木の高級鮨屋に、Tシャツとビーサンでおばちゃんがうろうろしているくらいの違和感。
私は日当たりのいい床几に座り、焼き立ての鯛焼きを食べた。
皮が薄くパリパリで、上品な甘さの粒あんがぎっしり入っている。
「美味しい」
「でしょう。よく買いに来るんです」
おじさんは、満足そうな笑顔を見せた。明るいところで見ると、細いフレームの陰にある目尻の皺がキュートだ。今日のシャツは白、ネクタイは赤に紺色のドットが入っている。
「鯛焼き、お好きなんですね」
「お恥ずかしながら、甘いものに目がなくて。酒はからっきしなんですが」
「ああ、私もです」
おじさんは、また笑顔を浮かべた。映画のときより笑顔が多い。営業用スマイルかしら、とこっそり思った。
「本、読みましたよ」
「え?」
何のことかわからず、訊き返す。
「あの映画の」
私は「ああ」と頷きながら、原作を薦めたのを思い出した。
「まだ何日も経っていないじゃないですか」
「次の日、すぐ本屋に買いに行きました。あの海のシーン、いいですね」
「いいですよね」
「ええ。今が冬なのが惜しいくらいです」
そう言って、おじさんは大きな口で鯛焼きにかぶりついた。
──変な人。
と、私も鯛焼きを食べながら思った。
「あと、あそこも。大学の階段で、青年とヒロインが会話をするシーン。建物のコンクリートのひんやりした雰囲気と、窓の外の樹のしっとりした感じがいい。『僕はこんなに絶望的に誰かを愛したことはない』」
私はおじさんの横顔をしげしげと見つめた。おじさんは、私の視線に気づいて頭を掻く。
「すみません、ぺらぺらと」
「いいえ。よく覚えておいでですね」
「それがわかるってことは、あなたも覚えているということでしょう?」
私が肩をすくめると、おじさんはまた小さく微笑み、それから餡子の詰まった鯛焼きのお腹に噛みついた。
「この辺りにお住まいなんですか?」
おじさんに訊かれて、私は「ええ、まあ」と答えた。
「部屋をお探しでしたら、あそこの店主に言っておきますよ」
「あなたはあそこのお店の方じゃないんですか?」
私の言葉に、おじさんが笑った。
「違いますよ。取引をしているだけで」
「さっきの様子だと、まるでお店の方みたいでしたけど」
「お客さんを見ると商売っ気が出てしまう。習い性です」
そう言って、おじさんは上着の内ポケットを探り、名刺入れから一枚名刺を取り出した。
名刺には、不動産会社の名前と、社長という肩書とともに名前が書いてある。
鯛焼きのおじさんの名前は、水野というらしい。私は旧姓で氏名を名乗った。
名刺をもらうなんて、久しぶりのことだ。私は、飾り気のないその名刺を眺めた。
「あの映画館には、よく行かれるんですか?」
おじさん──水野さんに訊かれて、
「いいえ、映画にはほとんど。水野さんは?」
と返した。
「実は私も滅多に。あの日は出先でたまたま時間が空いて、暇潰しのつもりで入ったんです。まさかこんな偶然があるとは思わなかった」
そう言って、水野さんは鯛焼きの尻尾を口に放り込んだ。
「あの、水野さん」
私が立ち上がると、水野さんは眼鏡の奥の目を丸くした。
「お願いがあるんですけど」

──ほぼ初対面の男の人を家に上げるなんて、どうかしている。
と思ったけれど、ここまで来たらどうしようもない。おかしな人でもなさそうだし。いや、変わったところのある人だけれど。
水野さんは「お邪魔します」と言って、行儀よくストレートチップの革靴を玄関で脱いだ。
マンションを売ることも考えている、と私が言うと、水野さんはあっさりと「差支えなければ現物を拝見しましょう」と言って部屋まで来てしまった。
幸い、ここ最近は常に部屋が片づいている。ベッドも整えてあるし、洗濯物は片づけてあるし、コーヒーテーブルにもダイニングテーブルにも出しっ放しの物はない。アキラと住んでいたときには、急な来客を部屋に上げるなんて絶対に考えられなかった。
「綺麗なお住まいですね」
水野さんはそう言って、私に断りながら各部屋を見ている。口元には柔和な笑みが浮かんでいるが、目つきは真剣だ。重要書類を読むときの目。
私は水野さんを放っておいて、薬缶でお湯を沸かした。急須に煎茶の葉を入れ、茶葉をお湯で蒸らしてから湯を注ぐ。少し待ってから、湯呑にお茶を注いだ。
「あの、よろしければ」
ダイニングテーブルにお茶の入った湯呑と由利子がくれたバタークッキーを並べて、水野さんに声をかけた。
「やあ、どうも」
さして広くない部屋だから、水野さんは一通り見てしまったらしい。「綺麗にお使いですね」と言いながらダイニングに入って、椅子に腰掛ける。
「こちらもどうぞ」
そう言って私は、クッキーを入れた小皿を水野さんの方へ押し出した。水野さんは目尻に皺を溜め
「ここのクッキーは美味しいですよね」
と嬉しそうに言う。
水野さんは、お茶を一口啜ってから
「このマンションは、おひとりで買われたんですか?」
と訊いてきた。
「いえ、あの。別れた夫に貰ったんです。その、慰謝料代わりに」
私は正直に答えた。
水野さんは表情を変えず、「ああ、なるほど」と言った。
「すみません、変な話をして」
「いえ。こういう商売ですと、お客さんのそういう話はよく聞きますから」
そう言って、水野さんはバタークッキーの封を開ける。本当に甘党のようだ。
「ええと、とはいえ、今日は参考までに。たまたま不動産屋をやっている友達が世間話で言っていたという程度に聞き流してほしいのですが」
水野さんは内ポケットからスマホを取り出し、電卓の画面を呼び出した。それからいくつか数字を叩いて、私の方へ差し出した。
「おそらく、これくらいにはなるかと思います」
私は、日常生活ではまず見ない桁数の数字をまじまじと見つめた。
「……結構高く売れるんですね」
「もちろん、今日は何の下調べもせず、私の勘でお話ししているだけですから、その通りになるとは保証できませんけどね。でもこのエリアは人気があるし、ここのマンションは古いですが管理がきちんとしていそうですから」
「そうなんですか」
私は、ゆっくりスマホを水野さんに返した。
水野さんはそれを内ポケットに戻し、バタークッキーを齧ってから訊いてきた。
「本当に売ります?」
「うーん……」
私はお茶を一口飲みながら考えた。
「正直なところ、ちょっと冷やかし半分なところもあったんです。でも、それだけの金額になると売ってもいいかなぁという気分もなくはないです。住み替えれば心配もひとつ減りますし」
「心配?」
私は、まあいいか、と思って由利子がしていた心配について話した。部屋の中を見られると、どうも何もかも晒したような気分になってしまうようで、個人的なこともべらべら喋ってしまう。ただの、通りすがりの鯛焼きをご馳走してくれたおじさんなのに。
水野さんは一通り私の話を聞いてから、
「それなら住み替えた方が気楽は気楽かもしれませんね。お勤め先はこの近くに?」
と訊いてきた。
「あの、それが、今は無職なんです」
「ああ、そうでしたか」
水野さんは、さっきからまったく表情を変えない。温和な口元と真剣な目元。私の人生の大修羅場を話しているつもりだけれど、だんだんどれも大したことではないような気がしてきた。

リビングの大きな窓から差し込む、冬の深い日差し。遠くから聞こえる自動車の走る音。部屋に立ち込める煎茶の香り。
そして、上質なダークグレーのスーツに身を包んだ甘党の紳士。
ひどく違和感のある風景なのに、不思議としっくりくる。

「キッチンの」
水野さんが口を開いた。
「模様ガラス、あれいいですね」
「そう思います?」
「ええ。すごくいい」
そう言って、水野さんはお茶を飲んだ。