今日も何の変哲もなく 6

電車の窓から見える空はグレーの雲が厚く垂れこめていて、ビルと雲との距離がやけに近い。
完璧なまでの冬の空。

電車の中に居ると、外の寒さはよくわからない。コートで着膨れした人が大勢いて、ご丁寧に暖房までかかっている。暑いくらいだ。
車内の吊革広告は、クリスマス一色だ。クリスマスセール、クリスマスディナー、クリスマスケーキ。近くに立っている若いカップルが、旅行会社のポスターを見て「グアムがいい」「ハワイがいい」と楽しそうに話している。大学生だろうか。
自分もああやって恋人と遊びに行く計画を立てるのが楽しいときがあったなあ、なんて思ってしみじみした。今は羨ましいとも思わない。ばばくさくなったものだ。
私は、目的地の駅で降りた。

街のデコレーションが赤と緑で染められている。重いグレーの空にはよく映える。耳に入ってくるのもクリスマスソングばかり。こうもクリスマスに固められていると、つい天邪鬼な気分になる。今年のクリスマスは絶対ケーキもチキンも食べないでおこう。筑前煮とか高野豆腐の煮物とかで過ごすんだ。

冷たい空気の中、しばらく歩いて着いたのは映画館。
好きな小説が映画化されて観たかったのと、せっかくなら無職のうちに平日の映画館を楽しんでおきたかった。学生の頃は講義の合間や深夜によく観たものだけれど、働き出してからはさっぱり。せいぜい、DVDを借りてたまに観る程度だ。
大人一枚のチケットを買って、ロビーに入る。
中は、意外と人がいた。大学生らしきカップル、学校帰りの制服の高校生、それに老夫婦。私くらいの年代の女の人も多い。暇潰しに映画館に来る主婦も多いのだろうか。
上映中にコーヒーでも飲もうと売店の列に並ぶ。映画といえばコーラとポップコーンというイメージがあったけれど、今はカプチーノやハーブティーなんかもある。唐揚げや鯛焼きまであって驚いた。
私の前の前辺りに、スーツ姿の男性もいた。四十がらみのおじさん。
平日の夕方に珍しい。営業帰りに直帰なのか、午後休でも取ったのか。この時期なら子どものクリスマスプレゼントを買いに、家族に内緒で街に出ることもあるかもしれない。
「カフェラテと鯛焼き」
おじさんの低い声が聞こえて、私はこっそり笑ってしまった。こういうおじさんは、ビールにフランクフルトだと思っていた。売店の若い女の子が、可愛い声で「カフェラテひとつに鯛焼きひとつですね」と復唱するのもなんだかおかしい。私も無性に鯛焼きが食べたくなってきたので、鯛焼きとホットコーヒーを頼むことにした。
小さな劇場に入ると、そこそこ客席が埋まっていた。若い女の子が多い。主演の若手俳優が目当てだろう。
早めに来たつもりでいたけれど、通路に近い席になってしまった。まあ、狭い劇場だから構わない。
私の席の隣には、鯛焼きのおじさんが座っていた。パンフレットを読んでいる。
長い脚が通路を塞いでいて通れない。
「すみません」
と、私はおじさんに声をかけた。
「あ、失礼」
おじさんは身体と脚を縮めて、私が通れる隙間を作ってくれた。私はバッグとトレイをどこかにぶつけないように持ち上げて、蟹歩きしておじさんの前を通る。
おじさんは、売店では着ていたトレンチコートを脱いで膝に掛けていた。ダークグレーのスーツに、薄いブルーのシャツと濃紺のネクタイ。フレームの細い眼鏡をかけている。髪に白髪が混ざっているので「おじさん」という印象だったが、ちらっと見えた限りでは目尻や口元に皺は少なかった。
──おじさん、というか、多分私とそう変わらない歳だわね。
座席にバッグとトレイを置き、カップホルダーにコーヒーを置いた。それからダウンコートを脱ぎ、バッグと一緒に膝に置いた。
──つうか、私もいい加減「おばさん」だものね。
カラーでごまかしているけれど白髪はあるし、目尻の皺は消えないし、腰回りの脂肪は垂れている。やれやれ。
私はトレイに置いてあった小さな鯛焼きを手にした。レンジで温められて一応熱々なそれは、いかにも冷凍食品といったクオリティ。一口食べてみると、すかすかの味気ない皮と甘いだけの餡子でがっかりした。これなら、同じ値段を払えば商店街でもっと大きくて美味しい鯛焼きが食べられる。
「不味いでしょう」
不意に、おじさんに声をかけられた。
おじさんは、既にトレイを床に置いてしまっている。紙ナプキンをくしゅくしゅに丸めてあるところを見ると、鯛焼きは平らげた後なのだろう。
「ええ、美味しくないですね」
私はおじさんの顔を見た。鼻の高い、端正な顔立ちだ。銀色の細いフレームがよく似合っている。
「これなら、外の商店街で買えばよかった」
おじさんは、至極真面目な顔をして言った。私はおじさんの真剣さに吹き出した。
「それ、私も思いました」
おじさんは私の方をちらりと見て、口元に微笑を浮かべた。それから、またパンフレットに目を落とした。真面目に文字を追う様子は、重要な書類でも読んでいるかのよう。
スクリーンで予告の上映が始まった。
私は鯛焼きの残りを食べながら、スクリーンに目をやった。

映画館から出ると、雪が舞っていた。
天気予報ではそんなこと言っていなかったのに。道理で、あれだけ厚い雲がかかっていたはずだ。
まだ道路に積もるほどではない。舞い落ちた雪はさっと溶けて、アスファルトに少し染みを作るだけ。道行く人も、ほとんど傘を差していない。いざとなればダウンコートにフードがついているし、この程度なら何とかなるだろう。
私はコートのポケットから手袋を出し、両手に嵌めた。
「入っていきますか?」
後ろから声をかけられる。
鯛焼きのおじさんだ。
黒い折り畳み傘を掲げている。
「いえ。駅までですので」
「私も駅までですから」
小さな傘に二人も入れないだろうに、と思ったけれど、振り切って逃げるのも変な気がして、私はおとなしくおじさんの隣に並んだ。上等そうな革の手袋。凝ったステッチの入ったトレンチコートの袖口。
「鯛焼きでも食べていきますか?」
おじさんの言葉に、私は吹き出した。
「この時間では、もうお店は閉まっているんじゃないかしら」
「それもそうですね。──では、お酒でも?」
「せっかくですけど、雪がひどくなると嫌ですから」
「そうですか。残念です」
私は、おじさんの横顔を見上げた。
言葉の割には、顔はさほど残念そうな表情をしていない。重要書類を眺めているかのような、真面目な顔つき。
「映画、面白かったですね」
おじさんは、大して面白くもなさそうに言った。
「はい。私、あれの原作が好きなので、嬉しかったです」
「原作はいいですか?」
「いいですよ。映画だと端折ってある部分も細かく書いてあって。あの青年が海で泣く場面も、波の描写とか日が落ちる風景とか切ない感じが良かったです。私は好きです」
「それなら、今度読んでみます」
すれ違う酔っ払いの大声、カラオケボックスの呼び込み、どこからか流れてくるクリスマスソング。私達はほどなく駅に着いた。
「私はこっち方面ですが、あなたは?」
おじさんは、私の行先と逆の方を指差した。
「私はあっちです。傘、どうもありがとうございました」
「いいえ。お気をつけてお帰りください。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
私が返事をすると、おじさんは柔らかい微笑を浮かべた。駅の容赦ない蛍光灯の下で見ると、おじさんの目元に弛みが目立つ。でも、決して不快な感じではなかった。
おじさんはくるりと向きを変えると、傘を畳みながら軽やかな足取りで改札の方へ向かっていった。
──あれもナンパのうちなのかしら。
でも、決して不快な感じではなかった。

 

カーテンの隙間から漏れる光が、やけに眩しい。
ベッドから降りると、空気の冷たさに身震いがした。遮光カーテンを開けると、一面の銀世界が広がっている。
「わあ……」
黒いアスファルトも、オレンジの瓦屋根も、薄いピンクのマンションも、どれも白くなっていた。グレー混じりの白い空からは、まだどんどんと雪が落ちてきている。
私は、着替えを持ってリビングに移動した。エアコンのスイッチを入れる。部屋が暖まるまでに、だいぶかかりそうだ。ブラインドの羽を回すと、白いものがちらちら舞っているのが目に入る。
これは、今日は外に出られなさそうだ。
仕事をしていたら、雪で滑る足元とか電車の遅延とか、とにかくうんざりしながら会社に行かざるをえなかっただろう。こういう悪天候のときに存分に部屋に引きこもっていられるのは、無職の大いなる特権。
エアコンの吹き出し口の下で、着替えをした。温かい機能性下着にカシミヤのニット、タイツの上にジーンズ、それに分厚い靴下。パジャマは後でタオルと一緒に洗面所に持っていくことにして、とりあえず椅子の背もたれに掛けておく。大して広い部屋でもないくせに、寒い日は廊下に出るのがとにかく億劫だ。
私は、冷凍庫から食パンを一枚取り出し、ラップを剥がしてコンロの魚焼きグリルの網に乗せた。グラスから受け皿に水を注ぎ、手動で三分強火にセットする。短時間でトーストするには、グリルが一番手っ取り早い。
パンを焼く間に、冷蔵庫からいろいろ取り出す。牛乳パック、バターケース、イチゴのジャム、無脂肪ヨーグルトの食べ切りパック、タッパーに入れておいた昨日の野菜スープの残り。
牛乳をムーミンのマグカップに注ぎ、ティーバッグ──これはトロピカルなフレーバーティーではなく、癖のないイングリッシュ・ブレックファスト──のホチキスを外して牛乳の中に入れ、レンジで温める。野菜スープは小鍋に入れて、火にかける。ニンジンと玉ねぎとセロリとキャベツとベーコンのスープ。
グリルの中を見ると、パンにうっすら焼き色がついていた。私はグリルを引き出し、パンを皿の上に乗せる。バターナイフを取り出してバターをパンに塗りつけ、ナイフを一旦洗って拭いてからジャムを重ねてパンに塗る。パンとヨーグルトとスプーンをダイニングテーブルまで運ぶ。
レンジが電子音を立てて、牛乳が温まったことを主張する。小鍋のスープもくつくつ言い始めたので、火を止める。スープボウルにスープを入れ、マグカップと一緒にダイニングテーブルへ運ぶ。
テレビをつけようとしたが、やめた。
ちらちら舞う雪を見ながらの食事も悪くない。私はボウルからスープを一匙すくって飲んだ。野菜の甘みとベーコンの塩気がちょうどいい。トーストも、バターのしょっぱさとジャムの甘さのコンビが癖になる。
雪が降る日は、静かだ。
雪が余分な音を吸収してしまう。外から聞こえてくる音はほとんどない。ときどき、遠くでチェーンがガリガリと地面を擦るのが聞こえてくるだけ。自分のパンをさくさくと噛み切る音がよく響く。
静けさに飽きて、テレビのスイッチを入れた。
朝のワイドショー。どのチャンネルも大雪のニュースを流している。電車が遅れて、人が溢れた駅。そうよね、こんな日には働かないのが正解よね、と納得して、テレビを切る。

キッチンを片づけて、洗顔も歯磨きも済ませて、洗濯機を回す。
寝室に入って、布団の形を整えた。レースのカーテン越しには、まだ雪がちらつくのが見える。今日は散歩も買い物も無理そうだ。
かと言って、家の中でやることも、特にない。クローゼットやキッチンを整理するついでにちょこちょこ掃除もしていたので、今年は大掃除もやらなくてよさそう。家の中に物が──人が少ないと、片づけや掃除が簡単に終わって、拍子抜けするほどだ。
私は、ベッドの反対側にある本棚の前に立った。
本棚は、クローゼットと同じく半分ほど空になっている。
数カ月前まではぎっしり埋まっていたが、アキラが持って出ていった。
──今思えば、何冊か残しておいてもらえばよかったな。
まだ読んでいない本がたくさんあったのに。いつでも読めると思って、なかなか読んでいなかった本。自分がこんなに暇になるとは、あのときは思わなかったから。
並んでいるのは、もう何度か読んだことのある本ばかりだ。私はその中から、昨日の映画の原作を取り出した。
私は文庫本を持って、リビングに戻った。エアコンが効いて暖かい。本をソファに放り投げ、キッチンでお茶を淹れた。ムーミンのマグカップは洗っている最中なので、湯呑にたっぷり注ぐ。それをリビングのコーヒーテーブルへ運んだ。
それから、ダイニングテーブルに置いてあったクッキーの箱。こないだ由利子とご飯を食べに行ったとき、北海道土産だとくれたもの。飾り気のないシンプルなバタークッキー。早速一枚取り出して封を破り、一口かじる。濃厚なバターの香りに満足しながら、濃い煎茶を啜る。
先日由利子と行ったのは、焼肉だ。
二人ともそのときはなぜかとても「肉を食べたい!」というモードになっていて、鮨だのフレンチだのいろいろ考えていたのに結局焼肉にした。といっても、二人とも大量に食べられる歳でもないので、高い店でほんの数枚だけ食べて──由利子は大いにビールも飲んで──、すぐにコーヒーショップへ移動した。
服や髪から煙の匂いをぷんぷんさせながら飲む焙じ茶ラテ。
周りの客はさぞや迷惑だったに違いない。
そのコーヒーショップで由利子が教えてくれた。
「アキラくん、会社辞めたよ」
私は目を丸くした。
「梢、聞いていなかった?」
由利子に訊かれて、首を振った。
「あの子は?」
私は名前を出さなかったけれど、由利子はアキラの新しい妻のことだとすぐに理解してくれた。
「一緒に辞めたよ」
「そうなんだ……」
急に焙じ茶の香りが遠くなる。
「辞めて、今どうしてるんだろ」
「さあねえ。皆知らないみたいよ。誰も突っ込まなかったみたい。──何か連絡来てないの?」
「アキラがあのマンションを出てからは、連絡取っていないの。何かあれば弁護士さん経由でってことになっているから、メールも電話も着信拒否してある」
「そうなんだ」
由利子は、カフェモカを一口飲んだ。この子の不思議なところは、大酒飲みなうえに甘党ということだ。
「あの二人が勝手に路頭に迷う分には、別にいいんだけどね。変に逆恨みして梢のところに突撃していたら、どうしようかと思っちゃった」
「怖いこと言わないでよ」
私は眉をひそめた。
「ねえ、梢。引越したら?」
「引越? どこに?」
「どこでもいいよ。あそこだと、アキラくんやあの子が場所を知っているじゃない」
「まあ、そうなんだけど。でも、今は私も収入がないからな」
「戻ってきたら?」
「どこに?」
「うちの会社」
由利子の言葉を、私は笑い飛ばした。
「ええ? 今から戻っても顰蹙じゃない」
「そんなことないよ。部長も皆もあの二人のことはわかっているしさ。大体、アキラくんより梢の方が仕事できたんだし、こんなことなら梢が残ってくれていればって言っているよ」
私は、黙った。由利子はカフェモカを飲みながら、くりくりとした大きい目で私を見つめた。
「そりゃもちろん無理にとは言わないけど。でも、それもアリだって考えておいて」
「うん。心配してくれてありがとう」
私は、バタークッキーを齧りながら、あのときの会話を頭の中で反芻した。
──そりゃね。この歳で一から仕事を探すより、勝手知ったる元の職場に戻る方が楽だと思う。
ただ、辞めるときにいろいろ考えて、いろいろ覚悟を決めたつもりだったのに、今さら戻りたいと言うのは虫が良すぎないだろうか。歓迎してくれる人も居るだろうけれど、不快に思う人だって居るに違いない。
「ただなぁ」
私は、スピーカーからiPhoneを外して、検索サイトの履歴を見た。求人情報のサイト。
──前の会社並みの給料の仕事って、ないんだよね。
ずっと馬車馬のように働いてきたので、世間の水準からするといい給料を私は貰っていたらしい。その前職並みの給料で、と探してみると、いくらも仕事がないことがわかった。
もっとも、昼夜も休日もないような仕事の仕方を今後も続けたいかというと、疑問だ。もう体力もないし、がつがつ働いてその先に見えるものが、何もない。それなら、残業もなくて責任の軽い仕事をして、細々と食べていけるだけ稼げばいいような気もする。住む場所だけはこうして確保できているわけだし。
思うに、アキラが浮気したのは、私が働き過ぎだったせいもある。と私は考えている。
私の目から見ても、男みたいにがつがつ働く色気のない女より、恋とお洒落で頭がいっぱいの女の子の方が可愛らしい。
「だからと言って、可愛くない女だとわかっていて結婚したのはあっちなんだし、浮気をしていいってことにはならないけどね」
私はiPhoneをコーヒーテーブルの上に置いて、呟いた。
今までの仕事の仕方に疑問を抱いたというのもあるけれど、アキラと新しい嫁が自分と同じ職場に居るのがいたたまれないというのは、退職の大きな理由なのは間違いない。
その二人が居なくなったのなら、由利子の言う通り元の職場に戻るのはアリなのかもしれない。

私はブラインドの隙間から外を眺めた。
まだ雪が降り続いている。

考えても仕方がない。
とりあえず、こんな雪の日には何もできない。
私は、クッションの上に伏せてあった文庫本を取り上げて、続きを読み始めた。