今日も何の変哲もなく 5

午前九時。

幼稚園のお迎えのバスがマンション前にやってきて、先生と園児が「おはようございまーす」とやり合っている。

私は羽毛布団の中で、次第にはっきりしてくる意識を観察していた。
子ども達がわちゃわちゃとはしゃぐ声が収まって、小さなバスのエンジン音が遠ざかる。今日はママ達のお喋りの声が聞こえない。寒くて早々に引き上げてしまったのか。
トイレに行きたくなって、身体を起こす。
今日は一際寒い。
夜中と同じようにフリースを羽織り、スリッパを履く。トイレまでのほんの数歩がだるい。トイレの中で自分の身体の熱さと脇の痛みに気づいた。
熱がある。

喉もいがらっぽい。今朝方目が覚めたときに感じた喉の乾きは、痛みだったのかもしれない。あの後エアコンも入れずにしばらくダイニングでぼんやりしていたから、本格的に風邪を引いてしまったのだろう。

発熱に気づくと、急にだるさがひどくなる。
のそのそとトイレを流し、いつもの倍の時間をかけて手を洗う。それから、いつもの三倍くらいの時間をかけて、キッチンに入る。
夜中に使ったまま作業台に放置していたムーミンのマグカップを使って水を飲んだ。嚥下の瞬間がつらい。喉が腫れているようだ。
私は冷蔵庫を開けた。
冷たい空気が、熱い頬に気持ちいい。十一月にもなって冷蔵庫で涼むことになるとは思わなかった。
卵、使いかけの乾物、調味料、豆腐、梅干、胡麻、小麦粉。チルド室にはベーコンとチーズ。こんなときに限って、食べ残しも作り置きもない。
野菜室の引き出しを開ける。ネギ、トマト、セロリ、キャベツ四分の一、ピーマン、椎茸、大根が五センチほど。冷凍室には、鶏肉と豚肉、ご飯が何膳か、食パン、冷凍うどん、パセリと茹でたほうれん草が入っていたはず。
いろいろ作れそうだが、作れる気がしない。食欲もない。
そういえば、この前親がカップスープを送ってきてくれたはずだ。私は食器棚の前に立ち、壁に手を付いて身体を支えながらしゃがんだ。足元の観音扉を開ける。果たせるかな、レトルトカレーの箱の横にそれはあった。コーンスープとクラムチャウダー。
私はコーンスープを一袋取り出し、よっこらせと立ち上がる。昨日は軽やかにこの動作を何度もしたのに。チェストの引き出しを開けたり、下駄箱の靴を取り出したり。
薬缶に水を入れ、コンロに置く。IHコンロのスイッチを押し、換気扇も回す。
お湯が沸くまでの間に、ムーミンのマグカップにスープの素を入れる。それから、またのそのそと食器棚へ戻り、引き出しからスプーンを一本取り出す。
──そういえば。
と、ぼんやりした頭で考えた。箸やスプーンもひとり暮らしには多過ぎる量だ。これも少しは処分しないと。
──でも、今日やらなくてもいいや。
私はまたゆっくりとコンロの前へ戻り、お湯が沸くのを待った。
少し動くと、起きたときよりだるさがひどくなってきた。
真っ直ぐ立っているのがしんどい。私は壁に肩を預け、だらしなく片脚重心で立つ。くらくらするので目を閉じる。それでもくらくらするので、目を開ける。
システムキッチンの前の模様ガラス。
今日は、なんだか星の模様が滲んで見える。
ようやくお湯が沸いたので、私は薬缶からマグカップへ勢いよく注いだ。からからに熱せられた薬缶の注ぎ口が、しゅこここ、と派手な音を立てる。
白い湯気。
鼻も詰まっているのか、それとも食欲がないせいか、スープの香りがしない。もしくは、単に安物のインスタントスープは、こんなものなのかもしれない。
スープの素がダマにならないようにスプーンを掻き回し、使い終わったらシンクに置く。薄黄色い液体で満たされたマグカップを持って、私はダイニングに向かった。
途中で、冷凍してあるパセリを散らしたら彩りがいいかも、と思い立ったが、億劫でやめた。
ブラインドを閉めたままのリビングダイニング。マグカップをテーブルに置き、一番大きな窓のブラインドだけ羽の向きを調整した。初冬の、やけに明るい日差しが入る。眩しさに目を細めた。
私は椅子に腰掛け、慎重にスープを啜った。コーンの香りはやっぱりしない。
──まいったなあ。熱を出すなんて、何年ぶりかしら。
アキラはしょっちゅう風邪を引く人で、でも熱はそんなに高くならないから出勤し、鼻水や咳がひどくなって不機嫌になっていた。
──大根の蜂蜜漬けのシロップをお湯割にして出したら、匂いが気に入らないって飲まなかったな。
今思うと、鼻が詰まって匂いもへったくれもなかっただろうに。不機嫌に付き合わされる身としては、たまったものじゃない。
でも、これだけだるいなら、機嫌よく過ごせというのも無理だ。
スープを飲み干すと、少し額が汗ばんだ。
風邪薬が残っていたのを思い出し、私はダイニングテーブルの横のキャビネットの扉を開いた。胃腸薬や虫刺されの薬に混じって、総合感冒薬の箱もある。
箱の裏面を読んで効能や服用量を確認しているうちに、別に薬を飲まなくてもいいような気がしてきた。
どうせ仕事をしているわけじゃないし。仕事どころか、出かける用事もない。
一日や二日寝ていれば熱が下がるなら、それでもいい気がしてきた。
私は薬箱をキャビネットに戻し、扉を閉めた。
マグカップをシンクに置き、水を張っておく。寝室からキッチンへ移動するのが面倒だから、寝込む用意をしておいた方がいいだろう。夏に麦茶を入れるピッチャーに、薬缶に残っていたお湯を注いだ。それから浄水器の水を追加する。湯呑と一緒に寝室のデスクに置いておこう。
寝込む前に、歯を磨こうと洗面所に入る。鏡に写った顔は、ひどい。いつもより隈が濃いし、顔色が悪い。ひどい顔を見たら余計にだるくなってきた。
髪をゴムで留めてから電動歯ブラシに歯磨き粉を付けて、口に押し込みスイッチを入れる。無遠慮な振動が顎を揺らす。いつもよりミントの香りが弱い。
固形物を食べたわけでもなし、雑に歯磨きを済ませる。洗顔はいいや。前屈みの姿勢になるもの億劫。ランドリーバスケットには昨夜使ったバスタオルなんかが残っているけれど、見なかったふりをした。
寝室へ戻り、ベッドに入る。枕に頭を沈め、羽毛布団を口まで引き上げる。ふう、と溜息をつくと、ずいぶん息が熱かった。
天井を見上げると、季節外れの籐のランプシェードが目に入る。結局まだ買い替えていない。とりあえず、今はどうでもいいや。
私は目を閉じて、次に目が覚めるときには熱が下がっていますように、と祈った。

ふと、目を覚ます。
喉元が熱い。
身体を動かすと、痛い。筋肉痛のような痛み。脇や脚の付け根が痛い。
それでも無理やり身体を起こし、デスクに置いておいたピッチャーから水を湯呑みに注ぐ。湯呑み一杯飲んでも足りない。もう一杯汲んで、飲む。
痛さを堪えながらもう一度身体を横たえる。
喉の熱さを感じながら、目を閉じる。

まどろみの中で夢を見る。
それは大抵、とてもリアルで、気持ちの悪い夢だ。忘れたい出来事とか思い出さないようにしていた人とか。
夢の中でも、アキラはとても不機嫌。彼の表情は、土気色に煙って読み取りにくい。それでも不機嫌さは伝わってくる。
「いやだ、──さん」
若い女の甲高い笑い声。
ああ、あの子だ。入社したときからアキラに色目を使っていた子。肌がぴかぴかで、髪がつるつるの子。地味なように装って、男を値踏みする眼光だけは鋭い。
「あの子をそんな風に言うな」
アキラがさらに不機嫌になる。
「そんな風に見えるなんて、お前がおかしいんじゃないか?」
腹にずっしりと石を抱え込んだような不快感。
妻がいる男に言い寄る女はおかしくないとでも言うの?

耳障りな、女の甲高い笑い声。
幼稚園のバスだ。子ども達を送ってきた先生の声。
午後三時。
身体を捻ってみると、パジャマが汗でしっとりしていた。熱が下がっているならいいが、悪夢のせいかもしれない。
私はベッドから降りた。
シーツや布団カバーも汗になっていそうだが、まだ交換できるほどの体力と気力はない。もう少し我慢。
ピッチャーから水を湯呑みに注いで、少しずつ飲む。
私は洗面所のチェストからハンドタオルを取り出し、水に濡らして固く絞った。それをレンジに入れ、三十秒ほど温める。即席ホットタオル。
洗面所でパジャマと下着を脱ぎ、ホットタオルで身体を拭いた。顔、首、肩、胸、腹、腕や脚も。
鎖骨がくっきり浮いた肩は貧相で、鍛えていない腹はだらしない。典型的な中年体型。これでも、仕事を辞めてからまめに散歩しているから、以前より腰回りはすっきりしたのだが。
べっとりしていた肌を拭き取ると、少しさっぱりした。チェストから新しいパジャマと下着を取り出して身につける。トイレに行ってから、また寝室に戻った。
ピッチャーの水を飲みながら、カーテンを少しめくる。
朝より雲が出てきたらしい。影が消えて、平坦なグレーの世界が広がっている。
私は、ベッドに上がって布団を被った。
息をつくと、まだ喉元や胸が熱い。でも、寒気は落ち着いたかも。
──なんで熱なんか出たんだろう。
離婚や退職の疲れが今頃になって出たのだろうか。
──それとも、あれかな。
私は寝室の隅に積んであるビニール袋を見た。捨てると決めたバッグが鎮座している。
──慣れない片づけをして、知恵熱でも出たのかな。
なんてことを考えながら目を閉じた。

再び目を覚ますと、真っ暗になっていた。
午後八時。
ひどい寒気はないが、筋肉痛はある。
私はもう一度ホットタオルで身体を拭き、パジャマを替えた。
それから、また眠った。
今度は夢も見ない。

午前六時。
カーテンの隙間から光が漏れている。
私はデスクの引き出しを探って、婦人体温計を取り出した。長い間使っていなかったけれど電池は切れてないようで、スイッチを押すと小さな画面に数字が並ぶ。私は体温計を咥えて、頭を枕に落とした。
しばらくすると、ピピッと音がする。三十七度五分。峠は過ぎたらしい。また夕方に熱が上がるかもしれないが。
私はベッドから降りて、キッチンに向かった。
昨日カップスープしか飲んでいないから、お腹が減っている。うどんを食べることにした。
鍋にお湯を沸かす間、ネギを刻む。小皿に卵を割り入れて黄身を軽く潰し、レンジで温める。半熟目玉焼き風の出来上がり。
ぐらぐらと沸いたお湯に冷凍うどんを一玉入れた。菜箸で麺を解し、茹で上がりを待つ間にザルをシンクに置き、食器棚から丼と箸を取り出す。耐熱ガラスの軽量カップに濃縮タイプの麺つゆを入れ、水で薄め、レンジで温める。
うどんが茹で上がったらザルでお湯を切り、丼に入れる。麺つゆをかけ回し、卵と刻んだネギを乗せる。最後に七味をぱらり。
熱い丼を、慎重にダイニングテーブルまで運ぶ。
それから、ブラインドの羽を調整して部屋を明るくし、久しぶりにテレビを入れた。賑やかな朝のワイドショー。芸能人の誰かの熱愛発覚、なんてニュースを長々とやっているところを見ると、大した出来事はないのだろう。私が一日二日寝込んでいたところで、世界に変化はない。リモコンでチャンネルを変えてみると、どの局も似たようなものだった。
私はうるさいワイドショーをBGMに、うどんを啜った。柔らかくてこしのある麺と、昆布や鰹節の出汁。卵の黄身の濃厚な味と、ネギの鮮烈な香り。それに七味の刺激。温かいものを食べて、急に鼻水が出る。テーブルの上に置きっぱなしにしていたボックスティッシュを一枚抜き取った。鼻をかんで、また無心に麺をすする。額には薄く汗が浮く。
一日何も食べていなかったので、一玉で気持ち悪いくらいにお腹がいっぱいになった。でも、胃腸の調子は悪くなさそう。身体のだるさの何分の一かは空腹が原因だったらしい。カロリーを取り入れて、少しパワーが漲ってきた感覚がある。
──やっぱり、食べるのって大事ね。
テレビの画面がCMに替わったのを機に、椅子から立ち上がった。寝室に置いてあるピッチャーや湯呑も洗おう。洗い物が終わったら、もう一度ホットタオルで身体を拭いて、それから溜まった洗濯物を片づけよう。念のために今日一日寝て、明日もおとなしくしておけば熱は下がるだろう。
ひとり暮らしで風邪を引いたら惨めなことになるかと思っていたら、何ということもなかった。
──こうやって、ひとりで生きていくスキルが高まっていくんだろうな。

淋しいということは、慣れてしまえばどうってことない。
私はひとりで生きていける。