今日も何の変哲もなく 4

実家から段ボール箱が届いた。
名目は、先日両親が京都旅行に行ったのでお土産を送るということだったのだが、それにしてはえらく大きな箱が届いた。

開けてみると、ニンジン、玉ねぎ、缶詰いろいろ、大量のサツマイモ、レトルトカレーがいくつか、インスタントのカップスープ、乾物あれこれ──切干し大根とかひじきとか乾燥ワカメとか、それに申し訳程度にマールブランシュのクッキー。
無職になった娘を気遣ってくれているのだろう。でも、離婚してひとり暮らしになったということは頭から抜け落ちているらしい。こんなに大量の食べ物、どうしたらいいのやら。
救いは日持ちがする物ばかりだということだ。

とりあえず、母にお礼メールを送る。
いつまでも玄関に大きな段ボール箱があっても邪魔なので、早速キッチンへ収納することにした。重くて箱ごと運べないので、中身を少しずつ取り出す。

まずは缶詰。それから、レトルトカレー。こういった保存食は、食器棚の低い場所に入れてある。上半分はガラス扉、下半分は木の扉になっているので、下に入れておけばやたらと派手なパッケージが目立たなくて済む。
ここしばらく、保存食は買い足していなかったので、棚の中はガラガラ。カレーの箱を立てて並べ、缶詰は積み上げた。ついでに在庫のチェック。パスタを切らしているので買わないと。あと、ケチャップと味醂も。
次に乾物を運ぶ。これは軽いので運ぶのが楽だ。切干し大根やらひじきやらのパッケージを、レトルトカレーの箱の横に立てて並べる。
次は根菜類。大きなビニール袋に入ったニンジンと玉ねぎ。先週、ニンジンを買ってしまったところだ。切干し大根と一緒に煮て、せっせと消費しなければ。
根菜は、コンロの向かいのワゴンに籠を置いて、それに入れている。ワゴンの下の段には、ニンジンと玉ねぎがこぼれそうなほど詰まった籠と、炊飯器。上の段にはオーブンレンジを置いている。

サツマイモは、とても籠に入りそうにない。さて、どうしたものか。

とりあえずレンジの上にサツマイモの袋を置き、段ボール箱を畳むことにする。マールブランシュの箱はダイニングテーブルへ。後で紅茶と一緒に食べよう。
畳んだ段ボールは、明日散歩のついでに近所の古紙回収業者へ持ち込むつもり。毎日暇だと、こういう瑣末な用事が次々片づいて気持ちがいい。仕事をしていたときは、畳んだ段ボールを一週間も二週間も部屋の隅に置いていたものだ。
一通り片づけて、レンジの上のサツマイモを前に途方に暮れる。
蒸かして食べる? レモンで煮る? 天ぷら?
私は一旦リビングに戻って、コーヒーテーブルの上に置きっ放しにしていた料理雑誌を開いた。確かサツマイモのお菓子が載っていたはず。
目当てのページはすぐ見つかった。うちにベーキングパウダーなどないので、ややこしいお菓子は作りたくない。スイートポテトなら何とかなりそうだ。

まず、サツマイモをよく洗って、ぶつ切りにする。レンジの天板に並べて二十分ほど蒸す。蒸している間に、食洗機と洗濯機の中身を片づける。
イモが蒸しあがったら熱いうちに皮を剥いて、身は鍋に入れていく。子どもの頃、母が蒸かしたてのイモの皮を素手で剥いたり、豆腐を掌の上で切ったりするのを見て、大人ってすごいと思ったものだ。すごいと思った作業を当たり前のようにやっていることに気づくと、少し誇らしい気持ちになる。
イモの皮を剥いたら、バターと砂糖も鍋に入れる。無塩バターはうちになかったので、有塩で。そんなに繊細なお菓子じゃないし、なんとかなるだろう。
オーブンレンジは予熱をし、鍋は弱火にかける。少し牛乳を入れて、年に数回しか登場しないハンドミキサーでかき混ぜる。バターが溶けてしっかり混ざると、もったりした生地になる。イモの甘い香りがたまらない。
もったりした生地はアルミカップへ。可愛い焼型なんてないので、無骨な、いかにも家庭料理という雰囲気になる。生地の表面に、刷毛で卵黄を塗り終わった頃、レンジの予熱が完了する。天板にカップを並べて、20分ほど焼けば完成。
焼き上がりを待つ間、調理道具の片づけを済ませることにした。バターがべっとり付いた鍋やミキサーを洗うのは、本当に億劫。食洗機がなかったら、こんなもの作らないと思う。

このマンションは、元々アキラの父親が所有していたものだ。
仕事の都合で持っていたセカンドハウス。私達が結婚するとき、贈与してくれた。
いかにも八十年代といった風情の内装は決して嫌いじゃなかったけれど、いかんせん水周りの設備は脆弱で不満だった。そしてアキラは、古臭い内装を気に入っていなかった。
だから私達は、入居前に自分達の好きなようにフルリフォームした。アキラは壁や床板に凝っていて、私はキッチンと風呂と洗面所とトイレに口を出した。食洗機もIHコンロも洗濯乾燥機もないと、仕事と家事を両立できない! と駄々を捏ねた。
でも、星の模様のガラスは残したかった。
アキラが、古臭いと笑ったガラス。
ピカピカの設備が揃ったシステムキッチンと、昭和の香りがするガラス。私は、この組合せが好きだと思った。
スイートポテトが焼き上がるまであと少し。私はお茶を淹れながら待つことにした。
アキラと離婚するとき、私は慰謝料を貰わなかった。その代わり、このマンションを貰った。
自分で凝って内装を決めたくせに、アキラはこのマンションにこだわらなかった。そりゃあ、前の妻と住んでいた家に、若い新妻と住みたくはないだろう。それくらいのデリカシーはあったようだ。
陶器のティーポットで淹れる苦い緑茶。ムーミンのマグカップ。
私は、この家にこだわったつもりはない。
気に入るキッチンの部屋を一から探すのが億劫なだけ。
ぼんやりと窓ガラスの模様を眺めていると、オーブンレンジがピーピーと音を立てた。スイートポテトの焼き上がりの合図。バターの焼けるいい香りがする。
ミトンで天板をつかみ、コンロの上へ移す。少し焦げ目がついて美味しそう。雑な形状も味のうちだ。
早速ひとつ食べてみることにした。小皿の上に焼き立てのスイートポテトとフォークを乗せ、マグカップと一緒にダイニングテーブルまで運ぶ。
フォークの先でアルミ箔を少し剥がし、スイートポテトを一口大に切り分ける。熱い欠片に息を吹きかけた後、火傷をしないように慎重に口の中に入れた。
甘い。イモの自然な甘さ。
それと、砂糖とバターの濃厚な、もう抵抗のしようがない香り。
滑らかな舌触りもいい。冷めたらもっとしっとりとした食感になるだろう。
甘いスイートポテトと、濃い目のお茶がまた合う。
世間の人は一生懸命働いているというのに、私はこんな美味しいものを食べてゴメン。
大きな段ボール箱にげんなりしたことと、バターの後始末にうんざりしたことは、綺麗さっぱり忘れることにした。

 

今日はゴミの日なので早起きをした。
朝ごはんを食べて、簡単に掃除して、洗濯をしてもまだ十時。
一日有効に使えるだけで、自分がきちんとした人間に思えてくる。もっとも、一日の有効な使い道を思いつかないのだけれど。
とりあえず、昨日畳んだ段ボール箱をリサイクルに出すことにした。薄くて暖かいシャツを二枚、タイツの上にジーンズ、薄いダウンジャケット。今日の風は冷たい。散歩の格好もすっかり冬仕様。
マンションから歩いて十分のリサイクルセンターには、大型トラックが二台停まっていた。おじさん達が荷台から古紙や段ボールを下ろして、倉庫のような建物の中の決められた場所に整然と並べている。
私が入ったら作業の邪魔になるかしら、と建物の入口で躊躇っていたら、おじさんに「姉ちゃん、段ボールならこっち」と声をかけられた。もう姉ちゃんって歳でもないけどね、なんて思いながら段ボール置き場まで小走りに向かう。
巨大な金網の籠に段ボールを入れた。段ボール置き場の横は雑誌置き場。漫画雑誌やグラビア誌が整然と積み上げられている。
その奥は、「古着」という札がかかっていた。
「あの」
私は、段ボールの束を運んでいるおじさんに声をかけた。
「古着って何でもいいんですか?」
おじさんは勢いよく段ボールの束を放り投げながら答えてくれた。
「いいよ。まあ、あんまり汚れてるのは困るけどね。油がべっとりとか」
私がお礼を言う間もなく、おじさんはトラックへ駆け寄っていってしまう。
もう着ないけど売るほどいいものでもない服は、ゴミに出すしかないと思っていた。ここに持ち込めばゴミ袋代が掛からない。私は散歩を三十分程度で切り上げて、さっさと家に戻ることにした。
家に帰って、クローゼットを開ける。
まずは、チェストの夏物が入っている引き出し。この前見つけたサイケデリックな柄のチュニック。改めて見ても、来年の夏に着たいとは思えない。このチュニックを着てできる仕事があるとも思えない。私はチュニックを寝室の床の上に放り投げた。
ついでに他の夏物も見た。
派手なピンクに派手なプリントが入ったTシャツ。汗染みが取れない白のカーディガン。気に入っていたけど、シルエットがタイトで暑いからあまり着ていないカットソー。色褪せで安っぽく見える紺のTシャツ。
一度片づけのスイッチがついてしまうと処分したいものがずるずる見つかる。私は他の引き出しも開けた。
縮んでしまったニット。同じようなものが何枚もある黒のタートルネックセーター。毛玉取り器でも毛玉が取りきれなかったニット。膝の辺りが伸びてシルエットが変わってしまったジーンズ。お腹がきつくなってきたウールのパンツ。
ハンガーポールに掛かった服も見た。
働き出してすぐに買ったスーツ。背中の丸みがバレバレになってしまうタイトなシャツ。可愛いと思って買ったけど合わせる服がなくてほとんど使わなかったガーリーなジャケット。いつ着るのかよくわからない派手な赤のワンピース。デザインが古臭くなってしまったロングコート。今の私には短すぎる丈のスカート。
あっという間に、床には服の塚ができた。
アキラの物が抜けて半分ガラガラだったクローゼットは、さらにスカスカになった。シンプルでオーソドックスで気に入っている服ばかりが掛かっている。
チェストの引き出しを開けてみる。こちらもスカスカになった。これならカットソーが皺にならずに済む。
こんなに服を減らしたら、働き出したときに着るものがなくて困りそうだ。でも何の仕事をやるかわからないし、どんな格好が必要になるかもわからない。仕事が見つかったら買い足せばいい、と思い直した。少なくとも、無職には充分なだけの数の服は残っている。
ついでに、クローゼットの中の棚に並べているバッグも点検した。
底やハンドルがボロボロになっているハンドバッグ。流行りが廃れたら使う気になれなくて死蔵していたショルダーバッグ。折り畳んだまま存在を忘れていたトートバッグ。
持って出掛けたいからクローゼットに入れていたわけじゃなくて、捨てるのが面倒くさくて放置してきたバッグ達。無職の今ほど時間があるときはないはずだ。今のうちに捨てておこう。来週の不燃ゴミに出せばいい。
クローゼットの棚には、お気に入りのハンドバッグ、書類が入るサイズのトートバッグ、カジュアルな布バッグ、それにショッピングバッグとスーツケースが残った。
ガラガラのクローゼットを見ていると、妙なカタルシスが湧いてくる。
アキラの物が抜けた後の空間を見たときは、いくばくか寂寥感があった。今はスッキリした気分しかない。
気分が乗って、下駄箱も整理することにした。
革が禿げて修理する気もないパンプスを何足か、ヒールが高過ぎて疲れるブーツ、やたらとビジューがついてゴテゴテしたサンダル。間に合わせで買ったビニール傘も要らない。
残った靴は、下駄箱の中の棚に間隔を開けて丁寧に並べた。ショップのような雰囲気になる。安物のサンダルでさえお洒落なアイテムに見えてきた。
私は興奮したままキッチンへ入った。ここにも不用品がある。どれも使っているつもりでも、汀に砂利が積もるように少しずつ要らない物が溜まってくる。
テフロン加工が剥げてしまったフライパン。シリコンのレンジ調理器。大き過ぎるボウル。使い勝手の悪いスライサー。
食器棚のガラス扉を開けてみる。
結婚祝いに貰ったバカラのペアグラス。
離婚したとき、ペアの物はあらかた捨てた。茶碗、湯呑み、箸。
バカラのグラスだけは、いい物だからもったいなくてとっておいたのだ。
けれど、私は家で酒を飲むことはまずないし、誰かを招く習慣もない。これも捨てよう。

大事にしていた──大事にしていたつもりだった物を捨てる決意をすると、とても大きな仕事をやり遂げた気分になれた。
達成感を味わった途端、お腹が鳴る。
時計を見ると、お昼を回っていた。今日は朝ごはんの時間が早かったから、昼も食べられそう。
とりあえず昼ごはんを済ませて、それから服の山をリサイクルセンターに持ち込むことにする。

 

午前三時。
変な時間に目が覚めた。

何か物音でもしたのだろうか。私は目を開け、耳を澄ます。
目には籐のランプシェード。耳には何も入らない。

喉が乾いた。
乾きと寒さを天秤にかけて、しばらく羽毛布団の中で逡巡する。迷うほどに頭が冴えてしまう。
私は思い切ってベッドから降りた。ひんやりした空気。椅子の背もたれに掛けておいたフリースのパーカーを羽織る。頼りない履き心地の、すっかりへたってしまったコットンのスリッパは、それでもフローリングの冷たさを遮ってくれる。
キッチンの食器棚からマグカップを取り出す。誕生日に貰ったムーミンのマグカップ。白地に黒のイラスト。
昼間に見ると牧歌的だが、夜中に見るとおどろおどろしい。
浄水器から水を汲み、マグカップを持ってリビングへ入った。
右手にはソファとブラインドが掛かった窓。
左手には小さなダイニングテーブル。私は二脚ある椅子のうちのひとつに座り、冷たい水を口に含む。
私の喉が鳴る以外は、何も聞こえない。
食道を通った水が胃に落ちる。身体の中心から冷えが広がる。すかすかとした、虚しい感触。

こういうのを、「淋しい」というのだろうか。