今日も何の変哲もなく 3

浴槽の栓をして、お湯張りのボタンを押す。

ポローンという音の後に「湯張りします」という耳障りな電子音。一呼吸置いて、浴槽にお湯が流れ込み始める。
私はそれを確認して、蓋を浴槽の上に広げた。

今日は寒い。お湯が入るまでの十分間は浴室暖房をつけておくことにした。そろそろガス代がかかる季節だ。日も短くなるし、いろいろと憂鬱な季節。
お風呂の支度ができるまでの間、私は寝室で取り込んだまま放ったらかしにしていた服をクローゼットに片づけることにした。
グレーのジャージのパーカー。ブルージーンズ。アンダーシャツ二枚。ダークグレーのハイネックのセーター。チェックのコットンシャツ。それに下着と靴下。
ずいぶんカジュアルな格好だ。

一応、会社に行っていたときは、もう少しましな格好をしていた。ジャケットとスカートとハイヒール。
そう言えば、ここのところハイヒールを履いていない。スニーカーとローファーばかり。ハイヒールの歩き方を、もう忘れてしまったかもしれない。

クローゼットの扉を開けた。
半分ガラガラのクローゼット。
埋まっている方の半分に掛かっている服も、ジャケットやシャツはこの秋一度も袖を通していない。
――結局、仕事がないと楽な服しか選ばないのよねぇ。
私はパーカーとチェックのシャツをハンガーに掛けた。デニムとセーターと下着は、クローゼットの中に入れてあるチェストの引き出しへ丸めて入れる。二日分の服があっという間に片づいた。アイロン掛けが要らないと、乾いた服の片づけは大した手間ではない。ひとり分の服だし。

仕事をしている間は忙しくて、一週間分の洗濯物をよく溜め込んでいた。寝室の隅に置いてあるハンガーラックが悲鳴を上げそうになるまで服を掛けて、翌日着る服はその中から慌てて取り出したりしていた。
こうして乾いた都度収納していると、何てことのない手間だ。シンクやコンロを磨く手間と変わらない。今までどうしてこんなことができなかったんだろう。
自分の苦手なことや駄目な点に気づくと、落ち込む。
もしこれができていれば、今の私の状況は少し変わっていたのかもしれないのに、と。
「残りおよそ五分でお風呂が沸きます」
洗面所の方から無粋な電子音が聞こえてきた。
お風呂が沸くまでもう少しある。私はチェストの前にしゃがみ込んで、デタラメに引き出しを開いた。
どの引き出しも服でぎっちり埋まっている。そのせいで服に皺が寄る。
試しに夏のカットソーを一枚引き出してみた。
サイケデリックな柄のチュニック。何年か前に旅行で着るために買ったもの。当然会社には着ていけなくて、数えるほどしか着ていない。
これを来年の夏に着るだろうか。
私は、三十六歳の自分がサイケデリックなチュニックを着る姿を想像してみた。今より一年分皺も弛みも増えた私の。
――ないな。
暇なうちにクローゼットの整理をしておいた方がいいかもしれない。傷んだ服や若過ぎる服は潔く処分しよう。
「お風呂が沸きました」
ピロロンという音楽の後に機械的な音声が流れてきた。

かけ湯をした後、私は湯船に身体を沈めた。
温かいお湯に入ると足先やふくらはぎが冷えていたことに気づく。
指先でふくらはぎを押してみた。ごりっという手応えと鈍い痛み。だいぶむくんでいる。
足の指を開いて、ぐるぐる回す。足の裏を拳でこする。踝の周りをさする。ふくらはぎを捻り、脛を押しながらこする。膝の裏を親指の腹でごりごり押す。太ももも押しながらこする。脚の付け根もごりごり押す。
この動作を何度も繰り返す。
それから、肩甲骨や鎖骨の周りを指で押す。耳を指でつまんで引っ張る。耳の周りを撫でて、首筋をこする。頬骨の下を拳で押す。
もう何カ月もエステやマッサージに行っていない。働いていないのに、身体の手入れに何万円も使うのはもったいないと思っていた。
でも、働かなくても脚はむくむし顔は弛む。
もう自力でベストな体調に戻れるほど若くはない。エステはもったいないけど、せめて整体か鍼に行こう。
私は、じんわり汗ばんだ頬を両手で包んだ。
無職になって、肌荒れはだいぶ良くなった。きちんと寝れるし――何しろ眠り過ぎなほど寝ているし――、野菜やたんぱく質を摂って比較的まともな食生活を送れている。
何より、人間関係のストレスがない。
ひとりで過ごすのは、とても楽。
例えばある日、私がお金持ちになったとしたら、一生こんな生活を送り続けるかもしれない。傍から見たら孤独に見えるだろうけれど、案外平気そうだ。
頭の毛穴から汗が噴き出してきた。そろそろ頭と身体を洗おう。
私は勢いよく浴槽の中で立ち上がった。

薬缶に残っていた湯冷ましを、ムーミンのマグカップに注いだ。ちょうど一杯分ある。飲み始めてみると意外と喉が渇いていて、一気に飲み干した。
濡れたマグカップに冷蔵庫から取り出した牛乳を注ぎ、レンジで温める。ホットミルクは寝つきにいいと雑誌で読んでから、気が向いたら読むようにしている。
効果のほどは、よくわからない。
こういうのは、気分の問題なんだろう。効くと思えば効く。それに、睡眠薬に比べたらずっと健康的。
熱々になったマグカップを持ってリビングのソファに向かう。
アイボリーの布地のスリーシートソファ。
ひとりで使うには大きいかもしれないと途方に暮れたりもしたけれど、ごろ寝するにはちょうどいいので、最近はこれがひとり暮らしでもベストのサイズだと思っている。
ムーミンのマグカップは、ガラスの天板のコーヒーテーブルに置く。読みかけの雑誌。読みかけの小説。テレビとスピーカーのリモコン。
私はテレビ台に向かってスピーカーのリモコンを操作した。
チーク材のテレビ台の上には、三十二インチの液晶テレビとBOSEのスピーカーが置かれている。iPhoneはスピーカーにセットされたままだ。私はジャズを選んで、ボリュームを落とした。ピアノとウッドベースの物憂げなメロディ。
ソファと反対側の壁がダイニングゾーン。折り畳みのテーブルと椅子が二脚置いてある。一脚は物置状態だ。座面にはティッシュの箱。背もたれにはフリースのパーカー。
ソファの背面に置いてあるフロアライトのスイッチをひねる。クッションを程よい場所に置いて、ソファの上に寝転ぶ。身体が少し沈む感じは、固めのベッドのマットレスととは別の安心感を私にもたらす。
私は胸の上に文庫本を置いて、続きを読み始めた。真夏の地中海での恋物語。少し肌寒い部屋で暗いジャズを聴きながら、ホットミルクをお供に読むには、あまり似つかわしくない小説。でも、こういう少々退屈な物語が眠気を誘うにはちょうどいい。
ページを繰るとき、身体をソファから起こしてテーブルのマグカップを取る。ふーふーと吹いてからホットミルクを一口飲む。そして、ガラスの天板が派手な音を立てないように注意しながら、そっとマグカップを戻す。
本に没頭している間は現実のことを考えなくていい。
例えば、冷蔵庫の中身とか。例えば、自分が今無職であることとか。ひとりで暮らしていることとか。明日は可燃ゴミの日だとか、
――そうか、明日はゴミの日だ。
私はホットミルクを飲み終えたら、歯を磨いてベッドに入ることにした。
いくら逃げても、日常は容赦なく私の周りをぐるぐるしている。
それに救われるときも、なくもない。

 

バーの扉を開けた。
仄かにニンニクの香りが混じる暖かい空気。「いらっしゃいませ」というバーテンダーの低い声。ピアノの生演奏。

私が予約していた名前を告げると、髪をポマードでぴったり撫でつけたバーテンダーに隅の小さなテーブルへ案内された。由利子はまだ来ていない。
私は先にメニューを開いた。料理が充実しているダイニングバー。仕事をしているときは、よく来ていた店。とりあえずジンジャーエールを頼み、メニューを眺め続ける。昼にお茶漬けを食べたきりなので、お腹が空いた。
ピアノを演奏している子は、この店で見たことのない女の子だった。古風な顔立ちの美人。二の腕の張りからして若そうだが、化粧が厚くてくたびれた印象を受ける。
カウンターには、ひとりで来ていると思われるサラリーマン、それに同伴出勤なのか派手な女の子とおじさん。
テーブルには中年カップルと若いOLらしき三人組。彼女達の絶え間ないお喋りは、ピアノの生演奏を掻き消してしまいそう。
ドアベルがカランコロンと音を立てる。由利子が入ってきた。彼女はすぐに私を見つけて手を挙げた。トレンチコートをバーテンダーに預けて、こちらまで大股で近づいてくる。
「ごめんね! 遅くなっちゃって」
「ううん。私も今来たとこ。ごめんね、忙しいときに」
「こっちもごめんね。わざわざ来てもらって」
由利子はバーテンダーに「ビール」と告げると腰を下ろした。目の覚めるような派手な青のモヘアの半袖ニットに、大振りなゴールドのネックレス。明るい色の髪は、ショートボブになっていた。由利子の大きな目にはよく似合う。
それから私達は、今夜は何を食べるかということを真剣に討議した。前菜の盛合せ、バーニャカウダ、蟹のトマトクリームソースのパスタ、若鶏のグリル バジルソース。デザートは、食事の後にお腹の空き具合と相談することにした。
バーテンダーが料理のオーダーを取った後、由利子のビールを運んでくる。私は飲みかけのジンジャーエールのグラスを挙げて、ビールのグラスとカチンとぶつけた。
「お疲れ様」
「お疲れ様」
由利子は喉が渇いていたらしく、グラスの半分くらいを一気に空けた。
「髪、短いのもいいね」
私が誉めると、由利子は「そう?」と言いながらオードリー・ヘプバーンのような仕草をする。ローマの休日の、トレビの泉の前の美容院でやった仕草。
「なんだか最近頭頂部がぺたんとなってきちゃってさ。思い切って切っちゃった。ショートボブなんてオバサンの髪型だと思っていたよ。歳取ったな」
「わかる。身体のあちこちで、もう若くないよねって思う」
私は由利子の言葉に同意した。
「ホント、そう。徹夜ができないとか」
「脚のむくみが取れないとか」
「お腹と太ももだけ脂肪がつくとか」
「胸は小さくなる一方なのにね」
私達は大きな笑い声を立てた。
途切れることのないお喋りも、箸が転がっても笑うのも、新入社員の頃から変わっていない。気持ちとしては、隣のテーブルの三人組と同じつもり。でも、確実に十年の月日が流れている。それはもう、容赦なく。
バーテンダーが、前菜の盛合せを運んできた。チーズ、生ハム、サラミ、小魚のマリネ、ラタトゥイユ。ビールをほとんど開けた由利子は、赤ワインを追加する。
「お休みはどう?」
チーズをつまみながら由利子が訊いてきた。
「お休みと言えば聞こえがいいけど、ただの無職だからねえ」
私は苦笑した。
「どうせまた働くつもりなら、長い夏休みだと思って楽しんじゃえばいいじゃないの」
「まあね。楽しくないことはないよ。暇なのってつらいかと思ったら、慣れると案外平気だし」
赤ワインとバーニャカウダが運ばれてきた。アンチョビとニンニクのいい香り。カラフルな野菜も見ていて楽しい。
「いつも何してるの?」
由利子はそう訊いて、早速赤パプリカにアンチョビソースをたっぷりつけた。
「そうねえ。掃除したり」
「うん」
「散歩したり。スーパーに行ったり。昼寝したり」
私はバーニャカウダの皿の上の大根のスティックをつまんだ。
「いいわね。優雅でいいじゃない」
「そうだね。私、自分は絶対専業主婦とか向いていないと思っていたけど、結構いけるかも」
「そりゃいいわ」
由利子はチーズをかじって赤ワインを一口飲み、それからまた私に質問した。
「また結婚したら?」
「ええ?」
私は由利子の言葉を頭の中で反芻する。もう一度結婚?
「いや~……、もういいや」
私は、素直にそう答えた。
「そう? なんで?」
「うーん、もう懲りたというか。そんな気力がないというか」
結婚について考えると、自然に眉間に皺が寄る。生ハムの塩気も旨味も消えて、ゴムを噛んでいるかのような気分になる。
「梢が悪かったわけじゃないんだから、そんな風に思わなくてもいいのに」
「ううん、私も悪かったのよ。全部とは言わないけど、どこかしらは」
「何が?」
「そうだな……。歳を取ったこととか?」
「そんなの誰だって老けるに決まってるじゃない。アキラくんだってオッサンになってるんだし」
由利子は憤慨したように言った。
「まあ、そうなんだけど。でも、人は老けるに決まってるてことと、アキラがもう自分の旦那ってことに安心して、無頓着に歳を取っていたのかも」
「アキラくんだってかなり無頓着にオッサンになってるわよ。じゃなかったら、離婚して一回り下の子と再婚なんかする?」
「そういうことをしでかす男を選んだのも自分だしね。やっぱり私のせいでもあるのよ、きっと」
由利子はまだ何か言いたそうだったけれど、パスタとメインが来たのでしばし口を閉じた。
由利子がチキンを切り分けて、私がパスタを取り分ける。
作業を終えて、それぞれを「美味しいね」などとひとしきり言ってから、由利子が話を続けた。
「こないだ電話でも言ったけどさ。今度同期の皆で集まろうよ。もちろんアキラくんは呼ばないから」
「あんまり気が進まないかな」
私は、また眉をひそめながらチキンを頬張った。
「どうして?」
「うーん、なんて言ったらいいんだろう」
フォークの先にパスタを巻きつける。淡い赤のソースがねっとり絡んだ麺から立ち上る、かすかな湯気。冬の朝に吐く息のよう、なんてまったく関係のないことを連想する。
「若い子に夫を寝取られた姿を晒すのも恥ずかしいし、無職で社会から落伍しているのを見られるのも恥ずかしい。見栄だわね」
「そんな心配しなくても。皆心配してるよ。アキラくん、ひどいって話してる。あんないい奥さん捨てるなんてって」
由利子は、ひどく悲しそうな顔をした。
「ありがとう。でも、そんなにいい奥さんでもなかったと思うの」
私はパスタを口に入れた。
ではどこが悪かったのかというと、よくわからない。
何も悪妻であれかしなどとはわざわざ思っていなかったし。普通に結婚して、普通に妻らしきことをやっていたつもり。
私にとっての「普通」が即ち夫を浮気に走らせる要素になるのなら、そもそも私は結婚に向いていないのだろう。
「アキラくんと彼女、元気?」
私は由利子に訊いた。由利子は、まだ悲しいような怒っているような顔をしている。
「さあ。元気なんじゃないかな。二人とも今まで通り仕事しているみたいよ。周りの目は冷たいみたいだけど」
「性格悪いかもだけどさ」
私はキチンにフォークをぐさりと突き立てた。
「それ聞いて、ざまあみろってちょっと思うのよね」
私がそう言うと、由利子はやっと笑った。