今日も何の変哲もなく 2

コットンとポリエステルの長袖Tシャツ。ボトムはストレッチの効いたデニム。それにウィンドブレーカーを羽織って、日除けに帽子を被る。足元はスニーカー。
近所を散歩するだけだと、こんな格好になる。

以前勤めていた会社の人には見られたくない姿だ。一応毎日小奇麗にしていたから、ギョッとされるだろう。顔なんて、日焼け止めを塗っただけで眉すら書いていないから、私だと気づかれないかもしれない。
私は玄関でスニーカーの紐をきゅっと結んで、帽子を深く被った。玄関の扉を開けて外に出る。鍵をかけて、ウィンドブレーカーのポケットに入れ、ファスナーを閉めた。反対側のポケットには小銭とiPhoneが入っている。歩くと鍵と小銭がちゃらちゃら鳴ってうるさいが、これ以上持ち物は減らせないので仕方ない。

エレベータでマンションのホールまで降りる。

水曜日は掃除の日。廊下やエレベータがきれいに掃除されていて気持ちがいい。
管理人室には灯りが点いていた。小窓から管理人さんの姿は見えない。今のうちに、と思って、足早にホールを横切った。仕事をしていないと、何をするにも後ろめたさがつきまとう。悪いことなんてしていないのに。
マンションを出ると、日差しの眩しさに眉をひそめた。空気はひんやりしているけれど、直射日光は厳しい。散歩にはいい日和だと思う。もう少し寒くなったら、外に出るのが面倒くさくなってしまう。
私はiPhoneにつないだイヤホンをポケットから引き出し、耳に嵌めた。歩くときはテンポのいい音楽を聴くに限る。音楽のジャンルをロックに指定して、iPhoneをポケットに戻し、イヤホン分だけ残してファスナーを閉めた。
私は大股に足を出し、腕を大げさに振って歩き始めた。
さて、今日はどんなコースにしよう。
街中を歩くには適当な格好過ぎるから、大きな公園をぐるっと回ってみようか。公園の周りには、いつもジョギングをしている人がいる。ジョガー達は蛍光イエローやショッキングピンクの派手なウェアを着ていて、私の適当な格好なんて目立たなくなるから好きだ。

平日の昼間、オフィスにこもりっきりの生活を止めてみると、外を出歩いている人が多いことに驚かされる。自転車の籠いっぱいに荷物を積んだおばさん、ベビーカーを押す若いママ、暇そうなおじいさん。
──皆いい身分だな。
そう思って、今は自分もその「いい身分」なことに気づいて、こっそり苦笑した。すれ違う人から見れば、私も暇そうにぶらぶらしている奥さんに見えるに違いない。
マンションから十五分歩くと、大きな公園に着く。公園周りの遊歩道にはぐるりと街路樹が植わっていて、季節を感じられる。今は葉が渋い赤に色づいていて、晴れ晴れとした青空とのギャップが物悲しかった。耳に入ってくる音楽がノリノリのロックというのも、また却って物悲しくなる。

平日の真っ昼間には、ジョガー達はほとんど居なかった。それもそうか。皆勤めに出ているのだろう。たまにすれ違うのは、リタイアしたと思われるおじいさんとおばあさんだ。彼らは地味なジャージを着て、のんびりウォーキングしている。
遊歩道を周回していると、信号に引っかからないし車の心配も要らないからいい。スピードを上げてどんどん歩いて大丈夫。坂もないし、楽だ。
三十分も歩くと、帽子の中がしっとりと汗ばんでくる。マンションを出たときは少し寒いと思っていたのが、ウィンドブレーカーが暑苦しく思えてくる。前のファスナーを開けて、首元から風を入れた。
重いと感じていた脚は、動かすにつれ軽くなってくるから不思議。散歩に出かけるまでは億劫だけれど、こうやって身体を動かしていると気持ちいい。
遊歩道を二周回ると、車道を挟んで反対側の歩道に人が増えてきた。スーツを着たサラリーマンや制服姿で財布を持ったOL。iPhoneで時間を確認すると、十二時を回っていた。
──そうか。世間はお昼休みだ。
私も、少し前まではあっち側に居た。コンビニに弁当を買いに行ったり、同僚と職場の近所の店に食べに出たりしていた。それは、恐ろしく退屈でどうでもいい日常生活のルーティンワークのひとつに過ぎなかった。単なる休憩時間で、単なる栄養補給だった。
歩道には、いろんな人が居た。
お腹が出て、肌寒いのにワイシャツ一枚のおじさん。手に持ったコンビニのビニール袋には、弁当の容器のほかに大きなペットボトルと何かお菓子の袋が見える。
神経質そうな細身のおじさんは顔色が悪い。仕事が忙しいのだろうか。
恰幅のいい紳士然としたおじさんと、彼を取り囲む数人の若者。おじさんに鮨か鰻でも奢ってもらうのか、若者達は一生懸命おじさんを笑わせていた。
制服の上にカーディガンを羽織ったOL達。寒そうに腕を組んで、のんびりと歩いている。道を塞いでいるから、後ろから来るおじさんが迷惑顔だ。
誰もが有能なビジネスパーソンではないはずだ。でも今の私には、きちんと勤め先があって、決められた時間に仕事をして、世間と同じようにランチを摂っているというだけで、彼らが眩しく見える。
──私も、ちゃんとあっち側に戻れるのかな。
私は信号のある横断歩道まで歩いて、「あっち側」に渡った。近くのコンビニを覗くと、レジに大勢のサラリーマンやOLが並んでいる。皆の一時間しかない休憩時間を邪魔するのも気が引ける。私は少し先のタバコ屋まで歩いて、店先の自販機でスポーツ飲料を買った。
ペットボトルを持ってもう一度横断歩道を渡り、公園の中に入った。
小さな子どもを遊ばせるママ。のんびり散歩しているおばあさん。池の鴨を大きな一眼レフカメラで撮影しているおじいさん。ベンチで缶コーヒーを飲んでいるサラリーマン。
私はなるべく人が居ない場所の空いているベンチに腰を下ろし、iPhoneをポケットから取り出して音楽を止めた。そして、ペットボトルのキャップを開けて、一口飲む。
温まった身体に冷たいスポーツ飲料が気持ちいい。
本当は、収入がない以上こんな物を買ってちゃいけないんだろうなと思う。家でお茶でも淹れて、水筒に詰めて持ち出せばいい。
そうした場合、水筒はどうやって運ぼう。手に持っていたら間違いなく邪魔だし、ウィンドブレーカーのポケットには入りそうもない。水筒や小物が入る小さなバッグがあれば便利そうだ。両手が空くタイプ、例えばリュックとかボディバッグとか。でも、私はそんなの持っていないはず。
「それでわざわざ買っていたら、そっちの方がもったいないかな」
この生活がいつまで続くかにもよるだろうけれど。

ふいに、iPhoneが震えた。
以前の職場の同期から電話だ。
「もしもし、由利子?」
久しぶりに人と喋る。なんだかうまく発音ができない。
「あ、もしもし、梢? 今大丈夫?」
由利子は早口に訊いてきた。
「私はいつでも大丈夫。ニートなんだから」
私の言葉に、由利子が笑った。
「どお? 元気でやってる?」
「一応ね。毎日暇よ。今も散歩していたところ」
「いいねぇ、羨ましい。こっちはそろそろ年末に向けて忙しくなるのよ」
「そんな時期だね。辞めちゃうと、そういう感覚がないや」
そう言ってから、私は一口スポーツ飲料を飲んだ。
「まあ、長い人生のうちにそんな時期があってもいいじゃない。どうせ仕事を再開したら、また忙しくなるんだから。ところでさ」
と、由利子は唐突に用件を切り出した。短い昼休み中の電話で、気が急いているのだろう。もともと彼女はせっかちなところがあるし。
「今夜同期で集まるんだけど、梢も来ない?」
「えっ、私も? なんで?」
「なんでってことないでしょう、同期なんだから。それに皆心配しているし」
「うーん……」
私は、もう一口スポーツ飲料を飲んだ。
「やめておくわ。せっかく声をかけてもらって悪いけど」
「そっか。残念。こっちも急に誘ってごめんね。それはそれとして、また今度ご飯に行こうよ」
「うん。いいね」
「じゃあ、またメールするね」
由利子はもう一度「急にごめんねー」と言って電話を切った。
私は、通話の途切れたiPhoneを眺めた。
慌ただしい電話は、一陣の風のようだった。唐突にやってきて、私を掻き回して急激に去っていく。
気を遣ってくれた由利子には悪いが、今みたいなぐだぐだな生活をしばらく続けていると「あっち側」の人間と集まるのは、ひどくハードルが高いと感じてしまう。
──ちゃんとした社会人でないだけで、ずいぶん引け目を感じることになるんだ。
「ちゃんとしているんだけどね。税金だって払っているんだしさ。生活できないほどお金に困っているわけじゃないしさ」
私は唇を尖らせて呟いてみた。
失業保険をめいっぱい貰って次の仕事を探そうと思っていたけれど、少し考え直した方がいいかもしれない。こんなに引け目を感じながら過ごしていたら、あまり楽しくなさそうだ。

スポーツ飲料を一口飲み、ベンチから立ち上がった。もう二周公園を回ったら帰ろう。
遊歩道に出ると、車道の反対側にはまだ大勢のサラリーマン達が歩いていた。昼食を終えて、職場へ戻るのだろう。皆、憂鬱そうでもあり、誇らしそうでもある。

私は、せめて胸を張って歩くことにした。