美人の憂鬱 5.にがい秋、そしてまた冬

秋の日暮れは早い。

 

少し前まで会社が終わる時間も明るかったと思うのだけど、今はもう西の空もすっかり夜になってしまっている。定時に上がれるとき、夏だと今から遊びに行けると思うけど、秋になると帰らなきゃいけないような気分になる。でも、早く帰ったところで待つ人もいないことを思い出して、やっぱり街に出かけてしまうのだ。
今年買った淡いベージュのベロアのジャケットを羽織って、ビルの外に出た。日が落ちたオフィス街は思ったより寒く、冬が近づいていることを思い知らされる。一瞬肩をすくめたが、ショルダーバッグをかけ直して一歩踏み出した。髪の乱れを指先でさっと直すと、フェラガモのサルヴァトーレがふわりと香る。すれ違うビジネスマンは歩を緩めて私を見る。

私を、見る。

いつものスタバに着き、いつものようにホットのラテを注文した。窓際のソファに座ると、窓ガラスには私の顔と店内の様子が映りこんで、外の歩道の様子は目を凝らさないとよく見えない。けれど、私は構わずにガラスを見つめた。黒いタイトスカートから伸びるストッキングに包まれた脚の形を厳しくチェックする。今日はずっと座っていたので、脚がむくんでいる。脚を組んでくるぶしの辺りを揉んでみた。足首に締りがないほど格好悪いことはない。
「足、どうかしたのか?」
頭上から澤村さんの声がした。手にはショートサイズのマグカップ。
「ううん、なんでもない。早かったのね」
「出先から直行したからね」
「大丈夫? 社に戻らなくても」
「大丈夫」
コーヒーテーブルにカップを置き、サムソナイトを床に置いて、澤村さんはソファに腰掛けた。私は組んでいた脚を戻し、澤村さんの位置から一番すらりと長く見えるような角度できちんと揃えた。
温かいコーヒーを飲みながら、今日あった仕事の話、昨日報道されたニュース、今から食べに行きたいゴハン、そんなことをゆっくり話す。澤村さんの声は、低くてとてもセクシーだ。私は澤村さんの声が聞きたくて、会話が途切れることがないように、話の先を次へ次へと促してしまう。澤村さんの私を見る目もまたセクシーで、ホントはゴハンなんかすっ飛ばして、今すぐにでもマンションに帰ってセックスくらい。
「じゃあ今日はスペイン料理にしようか」
マグカップをぐいっと傾け、残っていたコーヒーを飲み干した澤村さんが立ち上がった。今すぐ澤村さんとセックスできないのはつまらないけど、サングリアとパエリヤの誘惑も抗いがたい。
スタバを出ようとしたとき、自動ドアが目の前で開いた。
外が暗いから、誰かが立っているのに気づかなかった。ぶつからないように一歩下がる。
澤村さんの肩越しに、中野くんの顔が見えた。
目ざといチワワは、澤村さんのすぐ後ろにいる私にすぐ気づいたようだ。あっ、と言いかけた口を閉じ、澤村さんの顔を見る。澤村さんの方は、目の前の人が私と腕を組んで歩いていた男とは気づかず、「失礼」と声をかけて中野くんの脇を通って店外に出た。
私は一瞬足を止めたけど、中野くんから目を逸らし、すぐに澤村さんの後を追って中野くんの横をすり抜けた。歩くのが早い澤村さんは、もう数メートル先を歩いている。ヒールの音を立てながら、小走りで追いかけた。
「さやかさん?」
後ろから声が聞こえたのと、私が澤村さんに追いついたのは、ほぼ同時だった。澤村さんは、中野くんの私を呼ぶ声に気づいただろうか? 鼓動が激しいのを、急に小走りしたせいだと言い聞かせて、呼吸を整える。
「トルティーリャが食べたいなぁ」
のんきな声を上げているところを見ると、澤村さんは気づいてないに違いない。私は少し、ほっとした。澤村さんに気づかれないようにこっそり後ろを見ると、スタバの前でこちらを向いて立っている中野くんのシルエットが浮かんでいた。

網に乗せると、ロースがじゅわっと勢いよく音を立てた。
「さやかさん、こっちのタン焼けてますよ」
頼んでもいないのに、隣の伊東が私の取り皿に肉を乗せてくれた。ユッケでビールを飲んでいられれば充分なんだけどな。周りの子は猛スピードで肉を焼き、焼けたそばから肉を口に放り込む。特に二十代前半の子が集中してしまった網は「追加で注文していいですか?」と幹事に聞いて、こちらの倍はカルビを食べているようだ。
今日は、先日の役員行事の打ち上げで、秘書室の皆で焼肉を食べに来ている。女子ばっかりの秘書室に異動してくる男性は、焼肉でも居酒屋でも平気でがんがん飲み食いする秘書たちに裏切られたような気分になるそうだ。勝手に幻想を抱いて、勝手に裏切られていちゃ世話がない。
「若い女はすげぇな」
目の前の室長が赤い顔して呆気に取られている。
「若い子は肉が好きですからねぇ」
ピッチャーから室長のグラスにビールを注いだ。もう泡立たない温いビール。
「若い子って、お前も充分若いじゃないか」
「もう今年三十になりましたよ」
「さやか、そんなこと言ったら私はどうするのよ!」
私と室長の会話を聞きとがめた先輩が大声を張り上げて、周りが笑う。彼女は私より三つ年上だが、とっくに結婚して子どもも産んでいる。やるべきことをやっている、という自負があるから自分の歳を笑えるのだ。
「さやかさんも早く結婚すればいいのに」
ビールと梅酒で真っ赤になった伊東が絡んできた。
「室長、さやかさんのこのブレスレット、カレシさんからなんですってよ」
「へえ」
「伊東だってもうすぐ三十路でしょ。人のことはいいからさっさと嫁に行けば? こないだの合コンの子たちはどうしたのよ」
中野くんのことはしらばっくれて聞いてみた。
「全然ですよ、全然。やっぱり二十五過ぎると売れ行き悪いですね」
伊東は顔をしかめながら、網の上のロースを熱心にひっくり返している。焼けた肉は「はい」と言いながら、室長と私の皿に次々乗せていった。
「その点、マリは偉いですよ」
「ちょっとぉ、伊東さんやめてくださいよぉ」
焼肉屋に白いワンピースで着ていたマリが高い声を上げた。匂いが染みついたワンピースは、すぐにクリーニングに出すのだろうか。
「なに、マリがどうしたの?」
マリの隣に座っていた子が突っ込み、他の子もマリの方に注目する。
「いい機会だから皆に言っちゃえばいいのに」
ええ、そんなぁ、ともったいぶってはいるが、マリは話したくて仕方なさそうだ。周りの子もそれに同調して、なになに? と聞いてあげる。優しい子たち。
「ええとですねぇ、私結婚することになったんですぅ」
えーっ! という嬌声が上がる。あんまり大きい声だから、他のテーブルの客も一斉にこちらを見た。「うそ、ホント?」「わぁ、おめでとうございます」「誰と?」「いつ?」皆が口々にマリにいろんなことを言っているけれど、私は一言も口に出せなかった。
「相手の人はぁ、友達の紹介で一年くらい前から付き合ってるんです。いつ結婚しようかって話はしていたんですが、来年の春に式場が取れたのでぇ」
酒と炭火で上気した頬のマリは、ものすごく誇らしげだった。勝った、という顔をしている。「どこに勤めている人?」「日取りはいつなの?」と周りからの矢継ぎ早の質問に、ぴかぴかの笑顔でひとつひとつ答えていた。
「マリですね、子どものときから二十五までには結婚して子どもが欲しかったんです。もうその歳過ぎちゃったんですけど、ステキな人と結婚できることになったから、まぁいいかぁって」
私の取り皿にどんどん肉を乗せていた伊東は、それが減らないのに気づいた。
「どうしたんですか、さやかさん?」
「いやぁ……」
急に酒が回り始めたように頭がぐるぐるしていた私は、つい正直に言ってしまった。
「マリにも先を越されたかぁ、と思って」
伊東は豪快に笑いながら私の肩を叩き、
「そんな、さやかさんは美人過ぎるんですよ。男がためらっちゃうんですって」
それなら、美人でいることの意味って、いったい何だ?

 

スマホの画面を何度も確認してしまう。
髪や服から、焼肉の匂いがぷんぷんしている。早く服を洗濯して、髪を洗わなきゃ。でも身体が動かない。
フローリングは冷たかったけど、ビールで火照っている今の身体にはちょうどいい。
ようやく、着信履歴から電話をかける。
ワンコール、ツーコール、スリーコール……。
もう切ろうかと思った頃、「はい」という低い声が響く。
「もしもし、私」
うん、と澤村さんの声が聞こえる。後ろがざわざわしていた。駅だろうか。どうしたの、と澤村さんが優しく訊ねてくれる。
どうしたの。
ふいに、涙が溢れてきた。あんまり大量に涙が流れて、嗚咽が止まらなかった。
「さやか?」
耳に、心配そうな澤村さんの声が届いた。
「私、何やっているのかなぁ」
何回も呟いた言葉。明かりを消した部屋で泣きながら言うには、あまりにもぴったりきすぎる。
「何かあったのか?」
私が泣いているのに気づいた澤村さんは、何度も私に話しかける。
マスカラが流れ落ちるのも構わずに、私はしゃくり上げながら泣き続けた。泣きながら、全部澤村さんにぶちまけてしまいたかった。

本当は不倫なんてしたくなかった。澤村さんと付き合い出したときだって、面倒なことになったと思った。厄介なことになったな、って。でも澤村さんがすごく私にぴったりだから、すごく心地いいから、どんどんはまってしまって抜けなくなってしまった。澤村さんが私の男だったらいいのにって思った。私だけの男だったらいいのに、って。ひとりで過ごす週末に、今の家庭を捨てて私のところに来てくれたらどんなにいいのにって思った。こんな恋しか自分に残らないなんて、私の何が間違っていたんだろう? 何がいけなかったんだろう? 何を選び損ねたんだろう? マリなんて甘ったるくてつまんなくてバカな女を妻にしたがる男はいるのに、どうして私はこうしてひとりで泣いてなきゃいけないんだろう、って。若いうちに結婚することに何の意味も価値もないとわかってるのに、それでもバカな女たちに勝ち誇った顔をされると腹が立つのはどうしてなんだろう。でも、こんなことをぶちまけて、澤村さんに鬱陶しいって思われるのはイヤ。澤村さんに会うのは、いつでもスマートで知的で美人な私でいたい。って、こんな風にわかったようなフリして我慢するのは疲れた!

でも、私の口から出たのは別の言葉だった。
「澤村さんと、別れられたらいいのに、て思うよ。そうしたらもっと、楽になるかもしれないって」
一瞬の沈黙。
「さやか、今からそっち行こうか?」
私の理不尽な八つ当たりに腹を立てない澤村さんは、大人だなと思う。私はソファに身を預け、天井を見上げた。レースのカーテンを通して、街灯の光が天井に淡い影を落としている。
「ううん、大丈夫。なんでもないの」
「……本当?」
「うん、ごめんなさい。ありがと」
電話を切った。
多分、澤村さんが独身で、私だけの恋人なら、何をおいても今すぐ来て抱きしめてほしいと懇願したはずだ。それか、自分から彼の部屋に行って、泣きながら抱きついたに違いない。そうしたら、自分の孤独は少しは和らぐと思う。泣きたい夜に泣きつく相手がいるということだけで。
ソファにスマホを放り投げて、冷たいフローリングに寝転んだ。
冷たくて、暗くて、静かな、小さい部屋。何かに似ている。
ああ、そうだ。水族館で見た、深海魚の水槽。光の差さない海の底で暮らす醜悪な生き物。今の自分にぴったりじゃない。
涙は止まらなかったけれど、自分の連想が滑稽で、ひとりでくつくつ笑った。

 

珍しく中野くんからのメールも電話も途絶えていたと思っていたら(私から連絡を取ることがまずないので、そうなると私たちは音信不通になる)、霙が降った土曜日に「会いたいから時間をください」とメールが入ってきた。
暖かい場所でなら、と返信すると、例のスタバを待ち合わせ場所に指定してきた。
よく考えると、あのスペイン料理を食べに行った日から、中野くんには会ってないんだ。
白いニットにインディゴブルーのジーンズを合わせ、黒いエナメルのパンプスを履く。ジャケットを着て外に出たけどあまりにも寒いので、もう一度部屋に入ってコートに替えた。今年初めて袖を通すコート。
空を見ると鉛のような色をしている。もう少し寒いと、本格的に雪になるかもしれない。今は西の空の一部は雲が切れていて、光が伸びていた。
スタバに着くと、中野くんはもうソファに座っていた。私に気づいて手を上げる。コーヒーテーブルには、トールサイズのマグカップ。この寒空に、そんなにたくさん何を飲んでいるんだろう。朝から何も食べていなかった私はレジで急に空腹を覚えて、ラテとレモンケーキを頼んだ。砂糖でコーティングされた、べたべたに甘いレモンケーキ。
「お待たせ」
「こんにちは」
中野くんのいいところは、いつも礼儀正しく挨拶をするところだ。こんにちは、こんばんは、ありがとう。私がレモンケーキを指して食べていい? と聞くと、右手の掌で、どうぞ、と示した。フォークを差すと、さくっと表面の砂糖が崩れる。一口大取って「あーん」と差し出してみたが、「要らない」と言われてしまって、仕方なく自分の口に収めた。さっきまであんなにお腹が空いたような気がしたのに、一口で満腹になってしまいそうな甘さ。
「なんか、久しぶりね」
「そうですね」
中野くんは今日もだぼだぼのジーンズを穿いて、黒いVネックのセーターを着ていた。薄汚れた白いスニーカー。この子は足が大きいんだなぁ、と今更に思う。裸の足を何度も見ているはずなのに、こんなときに気づくなんて不思議。
「こないだの人、誰ですか?」
「こないだのって?」
無論、鉢合わせしたときの話とはすぐにわかったが、とぼけてみた。
「こないだ、この店で会った男の人ですよ」
中野くんは真剣な顔をして、真っ直ぐこっちを見ている。ああ、面倒くさい。私はそう思ってしまった。そう思ってしまったら、もうダメだ。二口食べたレモンケーキの皿に、フォークを置いた。
「お友達よ」
「まさか、あの人がカレシなんですか?」
無意識に、右手が左手首を押さえていた。いつもの癖で、今日も左手にはタンクに重ねてティファニーのブレスレットが揺れている。
「あの人、結婚してますよね」
「なんでそんなことわかるの?」
「左手、指輪してました」
中野くんの意外な目ざとさに驚いた。
「さやかさん」
いつもにこやかな中野くんが、今日は少しも笑っていない。
「正直に言ってください。あの人と付き合ってるんですか?」
「だったら、どうだって言うの?」
隣のテーブルの外国人は日本語がわからないのか、熱心にモバイルパソコンに向かっている。なんだって私は、こんなところで中野くんとこんな会話をしているんだろう。
「なんで私が、中野くんにそのことをどうこう言われなきゃいけないの?」
中野くんの顔色が、さっと変わったのが見て取れた。組んでいる手にぎゅっと力が入っている。
「そりゃ僕は、僕から頼んで付き合ってもらっていただけですけど……。でも、少しは恋人だと思っていいのかと思ってました。それに、相手が既婚者っていうのは……」
「あのね、中野くん」
ラテを一口飲んでから続けた。レモンケーキの甘さが消えない。今日はブラックにするべきだった。
「今まで私がお付き合いしてきた大人の男は、私がどこで誰と遊ぼうか、誰も文句を言わなかったわ」
中野くんの眉が吊りあがる。
「どうせ僕は子どもですから」
「中野くんは中野くんで、いいところあるし可愛いわよ。でも、中野くんにできないこともあるのよ」
「……なんですか?」
「そうねぇ。高いお店でご馳走してくれるとか。死ぬほど気持ちいいセックスをするとか、ね。」
「さやかさんは人をバカにしすぎている!」
周りに聞かれないように声を抑えているが、中野くんは語気を荒げた。
「僕はイヤですよ。自分のカノジョがそんな理由で、他の男と遊んだり寝たりするのなんて! なんでそんなことも思いつかないんですか?」
自分の感覚がイカれているのだろうか。夫婦でもないのに相手の貞操を求める気持ちこそ、私にはわからない。ましてや中野くんひとりに絞れと言われたら、この先の退屈な人生(例えば結婚して子ども産んでマンション買って毎月家計簿とにらみっこして暮らすというような)がすぐに想像できて、それだけでお腹いっぱいになる。
「それなら、私の恋人になりたいなんて、言わなきゃいいじゃない」
中野くんは勢いよく立ち上がって、ソファにかけていた黒いダウンジャケットを手に取った。
「そうします。もうさやかんさんには、ついていけない」
大股で店内を横切っていく。私の方を一度も振り向かずに、灰色の空の下に出て行った。
だいぶぬるくなったラテで指先を温める。
夢中になれない恋人を、いつまでもキープしておいても仕方ない。これでいいんだ。淋しくて仕方ない瞬間もあるけれど、今みたいな距離感で澤村さんと続けられたら、それでいい。そんなに澤村さんと離れられないなら、孤独と一緒に生きていく覚悟を決めてしまえばいい。

ソファに身体を預けてラテを飲みながら、ああそれでも、と中野くんのことを思い返した。
陽の光の下で肩を組んで歩く喜びを与えてくれたのは、中野くんだったな。

 

この冬は雨が多い。
霙や雪にならないのは暖かいせいかもしれないけど、冷たい雨っていうのは気が滅入る。
年賀状に印刷した宛名をリストと照合しながら、窓の外から忍び込む雨の気配に身を縮ませた。文例通りの挨拶文。見本通りの図柄。それが何百枚もデスクの上に積み上がっている。毎年残業して年賀状を作っていると、こんな意味のないビジネスレターやめればいいのに、と本気で思う。けれどやめることは誰もしない。やめることの方が、惰性で続けることよりパワーがいるのだ。
宛先に数枚誤字を発見して印刷会社に差し戻す準備をし、今日飛び込んできた弔事連絡に合わせて一枚年賀状を抜いた(寒いときと暑いときは人がよく死ぬことが、秘書をしているとよくわかる)。これでほぼ完了。修正分が戻ってきたら、投函すればいい。大きく伸びをして深呼吸をする。
誰もいないオフィスの戸締りを確認し、エアコンを切って電灯を消し、部屋の外に出て鍵をかけた。通用口で守衛さんに鍵を渡す。外に出ると結構な勢いで雨が降っていた。誰もが傘を広げて、足元を見ながら黙々と歩いている。この時間のオフィス街を歩く人は、皆が皆疲れた顔をしている。きっと私もくたびれた顔をしているのだろう。早く帰って、お風呂にゆっくり入ろう。雨の湿気で空気がどんよりと重い電車に揺られていると、滅入った顔をした自分が窓ガラスに反射する。私はこういうとき、どんなときより強く、早く死にたいと思う。

マンションの玄関に辿りつくと、人影があったのでギョッとした。このまま玄関に入らずコンビニに寄って時間を潰そうか、それか警察に通報しようか、一瞬迷っている間に、その人影は澤村さんだとわかってさらに驚いた。
「澤村さん?」
「お帰り。遅かったな」
今まで、連絡せずに家に来たことがない。いつもと何かが違うというのはよくわかったけど、何が違うのか澤村さんの冷えて血色の悪くなった顔からは読み取れなくて、不安になった。とにかく、このまま外に居続けたら凍えてしまうので、部屋に入ることにした。
私たちのコートや靴からのひやりとした湿気が、徐々に部屋を埋めていく。急いでエアコンのスイッチを点けて、「何か飲む?」と聞いた。コートを着たままソファに座った澤村さんは、首を横に振る。私は少し、途方に暮れた。
「寒いから、お茶でも淹れようか?」
「いや、すぐ帰るから」
私の顔を見ずに澤村さんは答えた。どうしたらいいのかわからず、私もコートを着たままその場に突っ立っていた。
「さやか、話があるから座って」
コーヒーテーブルの横の座布団を指さす。私はのろのろとコートを脱いで、ぺたんと座布団の上に腰を下ろした。明るい室内で見ても澤村さんの顔色は悪い。話って何だろう。
「あのな、さやか。バレた」
「は?」
何の話かわからず聞き返した。澤村さんは自分で言いたくなさそうな様子でしばらく私の反応を待っていたけど、私がそれ以上何も言わないので仕方なく続けた。
「さやかとのことが、嫁にバレたんだよ」
澤村さんはそう言って、指を組んで目を閉じた。
思ったより私は冷静だった。けれど、頭の中をものすごい勢いでいろいろなことが駆け巡ったから、後から思うとそれなりにパニックになっていたかもしれない。何が頭をよぎったかというと、奥様に怒鳴り込まれたり慰謝料を要求されたりしたらどうしようとか、会社とかに派手にバラされたら困るとか、それともこの夫婦は別れて澤村さんは私との人生を選ぶのだろうかとか、そんなようなことだ。でもそういうことは頭の中でぐるぐるしているだけで、口から出てきたのは「なんでバレたの?」という、どうでもいいことだった。
「さあ。よくわからん。携帯でも見たのかな」
「でも私からのメールは消していたんでしょ?」
「じゃあ興信所とかに調べさせたのかな」
夏に見かけた可愛らしい感じの奥様の姿が目に浮かぶ。スマホを覗き見するとか興信所を使うとか、そういうことをしそうになさそうな雰囲気だったのに。これだから女は怖ろしい。自分のしたことを棚に上げて、なんだか腹が立ってきた。
「なんて言われたの?」
「いや……」
話し渋っていたけれど、黙っていても仕方ないと観念したのか、面倒そうに口を開いた。
「些細なことで喧嘩したら、いいわよね外に楽しみがある人は、とか何とか言われて。そこで俺も放っとけばよかったんだけど言い返したら、全部は言わないんだけどいかにも知ってる風にちょこちょこ小出しにいろんな情報を喋り出して」
肩を落として話す澤村さんは、いつもより一回り小さく見えた。
「今は家庭内別居状態だよ」
「あなたはどこで寝ているの?」
「リビングのソファ」
「こんなに寒いのに? 風邪引くじゃない」
「仕方ないよ……」
私は、無意識に天井を見上げた。
根拠もなく、奥様は私のことに気づいてないと信じ込んでいただけに、何やら不思議な感じだ。例えば、物語の最後に突然無関係な人が現れて主人公を殺してしまう、みたいな出来の悪いミステリーのよう。
「それじゃあ、私とはどうするの?」
澤村さんは黙り続けている。
しばらく待ってみたけど、痺れを切らして私から聞いた。
「別れる?」
「さやかと別れるのはイヤだけど……」
「それじゃ、奥様と別れる?」
また澤村さんが黙った。
イライラする。答えは出てるんじゃないの。どうして自分で言わずに、私に言わせるんだろう、この男は。
「できれば、俺は今まで通りに続けたいんだけど」
「今まで通りって、奥様と別れず、私は相変わらず愛人ってこと?」
何を言っても私の顔を見ない澤村さんに、ますますイライラが募った。
「ふざけないで。もういい加減、疲れた。私に会いたいなら、奥様と別れてから来て」
怒りを顕にしてそう言うと、初めて澤村さんは私を見た。
「さやか、本気で言ってるのか?」
「本気よ」
「俺と会えなくなっても、お前は平気なのか?」
「平気じゃないかもしれないけど、こんな状況になってみても澤村さんは奥様の方が大事っていうんだから、そんな男と続けても仕方ないじゃない」
「誰も嫁の方が大事なんて言ってないじゃないか」
「私の方が大事だっていうなら、奥様と別れてもいいじゃないの。それができないんでしょ?」
澤村さんは、深い溜息をひとつついた。
「さやかは、そんなこと言わないと思っていた」
これがすべての結果なのだ。
我儘を押さえて、言いたいことを我慢して、甘やかして甘やかされて、おいしいところだけしか与え合ってこなかった関係の代償。
「残念ね。私だって特殊な女じゃないですから。自分の男には、自分を最優先してもらいたいわよ」
エアコンが効いて室内は暖まり、私たちのコートの湿気もすっかり飛んだけど、部屋の中は冷え冷えとしていた。
しばらくお互い黙っていたけど、不意に澤村さんが立ち上がった。
「帰るの?」
「ああ」
コートを着たままなので、そのまま玄関へ直行する。澤村さんの背中に私は聞いてみた。
「澤村さんは、私にどうしてほしかったの?」
「さあな」
靴べらを使って靴に足を押し込みながら、澤村さんが呟いた。澤村さん用に買った靴べら。これももう要らなくなるんだ。
「さあな、じゃわかんないよ」
「俺もよくわかんないんだよ」
いつもなら、ここでお別れのキスをして、名残惜しくてまた手を取って腕を絡めて抱き合うところだけど。今日は澤村さんは、私に靴べらを渡すだけだった。さっさとサムソナイトを右手に持つ。
「じゃあ。元気で」
「澤村さんも」
無機質な音を立てて玄関の扉が閉まる。
覗き窓から外を見ると、澤村さんがエレベータに乗り込むところが見えた。ロックとチェーンをかける。
部屋に戻って、さっきまで澤村さんが座っていたソファに腰掛ける。そのままずるずると倒れこんで横になった。
不思議と、涙が出ない。
不毛な愛人なんてさっさとやめた方がいいってわかりきっていたくせに情が移って別れられなくて、離れてしまったら恋しくて淋しくて生きていけないんじゃないかと心配していたのに。いざとなると、こんなもんか。別れる別れられないと散々やきもきした割には、自分の意思とは無縁のところで人生が動いてしまうものなんだ。

こんな風にあっさり断ち切られるときがくるとわかっていたのなら、もっと会える時間を愉しんでおけばよかったな。
白いソファに寝転びながら、部屋の中にある澤村さんのモノ(Tシャツとかシェービングフォームとかマグカップとか)を処分しなきゃと思うと面倒になってきて、仕方ないから目を閉じた。

 

お湯にバスソルトを落とす。本日は柚子の香り。

温かいお湯に全身浸すと、冷えた足先に血が通い出すのを感じる。バスタブの縁に頭を乗せて目を閉じ、今日中野くんから届いたメールの内容を思い出した。
中野くんが言うには、スペイン料理の日から私と澤村さんのことが気になって、会社帰りとかにあのスタバで張りこんでいたらしい。何日か目に首尾よく澤村さんを発見し、そこで澤村さんの左薬指の指輪に気づいたという。純真で真面目な中野くんは動揺し、何日も悩んだ挙句私に真相を問いただそうとスタバに呼び出すに至ったそうな。

──さやかさんが幸せならいいと思ったんですが、やっぱりあの人との関係はさやかさんを幸せにしないと思います。

その通りだよ、中野くん。

メールの最後の一行を思い出して、心の中で呟いた。
私の幸せって、何だろうね。中野くん。
こんな問い掛けが中野くんに届くはずもない。
とりあえず、今こうしてお風呂で温まっている時間は心地いいし、幸せだ。

 

正月というのは不思議と晴れる。

うらうらと晴れやかな青空を見ていると、わけもなく穏やかな気分になる。
こんな気分のときは、今年こそいい年になりそうだという予感がするけど、それが当たった例がない。いつの年でも、いいことも悲惨なことも起こりうる。

ひとりで過ごす正月も何回目だろう。親戚が鬱陶しくて、仕事が忙しいとウソをついて正月実家に寄りつかなくなって何年にもなる。デパ地下で買ったおせち料理の小さな折り詰めと、チーズやサラミなどのおつまみ、それにワインやビールが冷蔵庫に揃っていれば、それなりに満足なお正月を過ごせる。どうせ数日もすれば、いつも通りの日常が戻ってくるのだ。新しい年だろうと何だろうと構わずに。
昼近くに起きて、郵便ポストに年賀状を取りに行った。年々少なくなる年賀状。部屋に戻って缶ビールを開け、白いソファに座って、一枚ずつめくっていった。
少し前まで結婚式の写真ばっかりだったけど、最近は赤ちゃんの写真ばかりが目につく。親だけが可愛いと思っている赤ん坊の写真。ひとりひとりの名前なんて、とてもじゃないけど覚え切れない。朋美からの年賀状には、見覚えのあるドレスを着た写真がプリントされていた。手書きのコメントで「今年ママになります」と書いてある。
うららかな青空を眺めながらビールを飲んだ。

 

私は今年、三十一になる。