美人の憂鬱 4.明るい闇

三十になった。

 

夏の終わりに生まれた私は、毎年自分の誕生日の頃には物悲しい気分になる。夏休みが終わってしまうときの淋しさ(また学校に閉じ込められる窮屈な日々が始まる憂鬱!)。朝晩は、ほんの少しだけ暑さが緩む切なさ(太陽は永遠に照りつけるような勢いだったのに)。うるさくてしかたなかった蝉が死に絶え静かになり、秋の虫がこっそり鳴き出す侘しさ(あちこちに転がる蝉の死体も物悲しい)。そして、今年は二十代との別れの日でもある。だから、物悲しさに拍車がかかった。

それでも、そんな私の気分を無視して、時間は淡々と過ぎていく。

いつもと同じ時間に起きて、会社に出かけて仕事をし、ランチは秘書室の子と一緒に摂って(そしておめでとうくらいは言われて──もう三十ね、くらいのことも言われて)、夕方短くなった昼間の時間に気づいて、ボスが帰った後に会社を出る。いつも通りの、何も変わらない一日。こうやって何も変わらずに三十一になり、三十五になり、四十になっていくのかもしれない。変わらずに、こうやってひとりで。結婚もせず、子も産まず。大したキャリアも積まず。頼りにしている美貌も、もう若さという武器は残っていない。

電車の窓に映った私は、疲れた顔をしている。きれいに手入れした髪と、コンサバティブだけどセクシーなシャツとタイトスカート。上質な一粒ダイヤのネックレスと、星のチャームが揺れるブレスレット。
でも、顔は疲れている。ひどく滑稽な女のようで、惨めになった。こんなひどいときの私は、街中にいても泥の中の貝のように冴えない。
ハンドバッグのポケットでスマホが震える。澤村さんからのメールだ。
──今どこにいる?
電車の中、と返信した。すぐに、もう帰るの? と返ってくる。そうよ、と短く返すと、今から部屋に行く、と返事があった。溜息をついて、スマホをバッグに戻す。
冷蔵庫には何も残っていないので、コンビニに寄ってビールとおつまみを買い込んだ。今日会うのは億劫な気がしたけど、それでも澤村さんが家に来てくれるのは嬉しい。部屋に入ると、日中の熱気がまだこもっている。エアコンをつけて、ビールを冷蔵庫に入れていると、着替える間もなくチャイムが鳴った。澤村さんだ。
「まだ会社かと思ったのに。帰るの、早かったんだな」
ハンカチで汗を拭きながら、部屋に上がりこんできた。レモンイエローの爽やかなシャツと、オレンジのネクタイ。「秘書も営業も、夏でもネクタイが外せない」と、いつか愚痴をこぼしていた。久しぶりに嗅ぐ、澤村さんの汗の匂い。私は切なくなって、エアコンの真下で冷気に当たっている澤村さんの背中に寄り添った。
「私、三十になっちゃった」
「うん、知ってる」
澤村さんは私の方を向いて、汗ばんでいる身体に私を押し込んだ。
「誕生日、おめでとう」
それが言いたかったんだ、と言って、ちゅっとつまむようなキスをする。笑ったときにできる、澤村さんの目尻の皺。私はなんだか哀しくなって、無理矢理笑ったけれど、途中から泣き出してしまった。
「どうした?」
澤村さんがびっくりしている。
「私、何やっているんだろう」
「何が?」
私の腰を抱いて、頭を撫でている澤村さんの手は、まだ熱い。背中に手を回すと、エアコンの風でひやりとしている。
「三十にもなって、こんなことしていて。何してるんだろう」
澤村さんは、黙って私の頭を撫で続けていた。
困っているんだろう。
私も、困っていた。
澤村さんには奥様がいるんだし、私とは一時的な遊びなんだから、私も割り切って大人の恋愛を楽しむだけにするつもりだった。私の生活には立ち入らせすぎないつもりだったし、困らせたり悩ませたり、そういう発言や態度は自分に禁止してきた。おいしいところだけをお互いが愉しむ、さらりとした関係。修羅場とかドロドロとか、そういうものとは無縁の間柄。今、それを自分で破ってしまっている。でも、だからといって澤村さんに何を求めているのか、自分にはよくわからない。
「さやかは頑張ってるよ」
困った挙句に、澤村さんがそんなことを言った。なんだか、それがひどく癇に障る。私は澤村さんの腕から抜け出した。
「何を頑張っているの?」
「何をって。仕事とか。きちんとした生活しているし、いつも身奇麗にしているし」
突っかかってくる私に、困惑しているようだ。理不尽だとは頭でわかっているけれど、私のこのもやもやや焦りをわかってもらえないことに、ひどくイライラしてきた。
「頑張ってないよ。仕事はいつまでもお茶汲みだし、生活だって酒飲みで浪費家でいい加減だし。身奇麗にって言っても、誰も嫁にもらってくれない程度だし」
バカな私。何言ってるんだろう。
でも涙が止まらなくて、ソファに座ってタイトスカートから出ている膝小僧を、しゃくり上げながら眺めた。澤村さんは、しばらく黙って私を観察していたようだけど、私の前に座って顔を覗き込んできた。
「何かあったのか?」
涙に睫毛が濡れている。マスカラが取れてしまっているに違いない。
何がしたいんだろう、私。何がこんなに、私をイライラさせているんだろう。
ああ、そうだ。
「こないだ、映画を観に行ったの」
私の頬の涙を拭き取っていた澤村さんの指が止まる。
「あの人、奥様?」
澤村さんの顔を見る。もう笑ってはいなかった。私の目を、じっと見返している。
「そうだよ」
澤村さんは、あっさり答えた。
「さやかも来ていたのか。……誰と?」
「ひとりだよ。……他に、誰と行くっていうのよ」
また目を落とし、澤村さんのオレンジ色のネクタイを眺める。こんなときなのに、ヒヨコと卵の柄が、可愛いって思った。
「もう、別れる」
「イヤだよ、なんで?」
澤村さんが即答した。私はその瞬間安堵して、澤村さんが別れを否定することを期待していたことに気づいた。それでも、そのまま私のイライラをぶつけた。
「もうヤなの、あんな思いするの」
「俺はイヤだよ、別れるなんて。さやかを失うなんて、無理だよ」
「無理じゃないよ。素敵な奥様がいるじゃないの」
澤村さんは、振り払おうとする私の腕をつかんで、強引に私を抱き寄せた。汗をかいた澤村さんの肌の匂いと、広い肩幅と、熱い体温。別れたいって言ったばかりなのに、この男の腕の中はこの世で一番安心する。私のそんな気持ちを見透かしたかのように、
「さやかだって、俺と離れるのイヤだろう?」
なんて言う。
ずるい男だ。ここで別れてくれれば、私は澤村さんをひどい男と罵って、嫌いになって離れることができるだろうに。こんな風に抱き寄せられて、キスされて、身体を開かれて、感じて濡れてしまったら、離れられるはずがない。澤村さんの肩や腕に歯を立てながら、泣いて「好き」と訴えることしかできない。
「こんなに好きになるつもりじゃなかったのに」
汗でお互いの肌がしっとりと馴染む。でも、汗のせいだけじゃなくて、この男の肌とは馴染みすぎて離れがたくなってしまった。
「嬉しいよ、さやかがそんなに俺にはまってくれて」
澤村さんが私の耳たぶを噛みながら、囁く。腰をぴったりと密着させて、溶けてひとつになってしまう。
「誕生日、おめでとう」
裸の澤村さんは、もう一度言った。
「三十一も三十二も、その先もずっと、こうやってさやかを抱いて過ごしたいよ」
私は、それはとても素敵で幸せなことだと思いながら、それが本当に幸せなことなのかわからず、混乱して澤村さんの背中に爪を立てることしかできなかった。

 

朋美からのメールだ。
──ひさしぶり! 元気にしてる? 結婚式のときはありがとね。なんと、来年の春にはママになることが分かりました。不安もあるけどちょー楽しみ。また新居にも遊びに来てね。
読んだ瞬間、スマホをベッドに放り投げた

 

広めの個室の中央に、丸い大きなテーブル。
四人で使うには、ちょっと大きすぎるテーブルだ。隣とも向かいとも距離がやや遠い。もっとも、ボスは機嫌よく酔っ払っていて、距離をものともせずに大声で喋っている。
ホテルの最上階の中華レストラン。ウェイターがつきっきりで世話してくれるので、取り分けるのに便利なはずのターンテーブルの出番は一切、ない。前菜もスープもおそろしく正確に等分されるし、北京ダックは切り分けられるどころか、餅にきれいに包んでくれるところまでウェイターがやってくれる。
ボスは社長に就任してからビジネスライクな接待が続いていたけれど、今日の相手は部長時代から懇意にしている取引先の重役さんなので、お互い気心が知れていて気楽な様子だ。勝手に「じゃあ今度お互い秘書でも連れて」なんて約束をしてきたせいで、夜景を眺めながら北京ダックを肴に紹興酒を飲むはめになっている。しばらくは忙しいからと逃げていたけれど、就任から二カ月、ちょっと落ち着いてきたからセッティングするようせっつかれてしまった。
もっとも、こういう席は苦手ではない。
エグゼクティブの相手なんて、慣れればそんなに難しいことではない。
にっこり笑って楽しそうに話を聞くふりをして、相手の優越感を損なわないように物知らずのふりをして、バカだと思われない程度にひそやかに知性を振りまいておけば済む。
服装やメイクも重要だ。適度にコンサバティブで、なおかつ多少は流行も意識して、そのうえ上品であれば、男性にも女性にもウケがいい。今日は、身体の線がきれいに出るブラウンのパンツスーツに、暑苦しくならないようライトブルーのシンプルなインナーを合わせた。テーブル席では、上半身が美しく見えるようにしなくてはいけない。一粒ダイヤのネックレスと淡水パールのネックレスを重ねて、それに合わせてパールのピアスをつけ(パールは大抵の女を上品に見せる)、それが際立つように髪はハーフアップにしてある。中華なら照明を落としすぎることはないだろうと踏んで、アイシャドウとチークは濃くなりすぎないように気をつけた。
私を一目見た接待相手の重役は目を見張り、就活の学生のような野暮ったいダークグレーのスーツを着た秘書の顔には、はっきりと敗北と書かれていた。
男の賞賛と女の嫉妬は、自分が美しいことを私に自覚させる。
けれど、私が人生に必要であると言う男は、いない。
つまらない女がつまらない男の嫁になり、子を産んでいくのを見ていると、そういうつまらない生き方すら選ばせてもらえない自分が、どんなに美しくても無価値に思えてくる。
紹興酒が強すぎて、悪酔いしそうな予感がしてきた。

夕方のオフィス街は、水族館の大きな水槽によく似ている。
昼間は疲れてふらふらしているオジサンが多いけれど、定時になるとあちこちからOLが吐き出されてくるし、学校帰りの学生達も交じって、ずいぶんカラフルになる。
日が落ちるのが、だいぶ早くなった。終業時間すぐにビルを出てきたのに、もう空が暗くなって街灯がついている。秋になるということを、いやでも実感させられる。
ときどき、澤村さんと待ち合わせているわけでもないのに、こうしてスタバの窓際のソファでぼんやりすることがある。ホットのラテをちびちび飲みながら、歩道を行き交う人を眺め、渋滞で動かない車の列を見つめる。澤村さんがここに来ることを期待しているわけではないけれど、ときどき澤村さんに似た人(後頭部とか体型とか)を見かけると、ドキッとする。
会いたいなら、会いたいってメールを一本打てば済むのだ。
わかっているけれど、会えないって返ってくるのが怖くてできない。それなら、会いたいけど会えないって、こうやって待っている方がマシなような気がする。
「何やっているんだろうなぁ、私」
最近、こんなことばっかり呟いている。
面倒なら、別れてしまえばいいのに。今までもそうしてきた。生活や人生に邪魔になる男は、いない方がいい。私を振り回したり大事にしなかったり、そういう相手と一緒にいても私が損するだけ。頭ではわかっているのに、いざ澤村さんを失ったときのことを考えると、別れることができない。香ばしい肌の匂いとか、器用でセクシーな指とか、惜しげもなくキスを与えてくれる唇とか、夜中の「愛してるよ」ってメールとか、そういうものが私からすり抜けてしまうのは、惜しい。
こんなの、愛でもなんでもなくて、単なる執着だ。
そして、どんなに執着しても、澤村さんは私だけのものにはならない男なのに。
「さやかさん!」
急に話しかけられて、ビックリした。
振り向くと、中野くんが立っている。白いシャツは腕まくりされていて(私はシャツを腕まくりする男が嫌いだ)、ジャケットは手に持っている。額の汗を見ると、この子はまだ夏の中に生きているみたい。
「偶然ね。どうしたの?」
「どうしたの、じゃないですよ。さっきそこ歩いていたら、さやかさんが座っているのが見えて、入ってきたんです」
「そう。全然気付かなかった」
ホントに、まったく気付いてなかった。ぼんやりしながらだけど、ずっと外は見ていたのに。澤村さんに似た人には、いちいち反応していたのに。
いいよ、と言ってもいないのに、中野くんは隣のソファに腰掛けた。
「さやかさん、今日はもう仕事終わりですか?」
「うん。さっき会社出たところ」
「それなら、今からどうですか?」
「何を? ゴハン? セックス?」
中野くんはパッと顔を赤らめて、慌てて周りを見渡し、「そんなこと言っちゃダメです!」と小声で文句を言った。
「ゴハンですよ。あぁ、ビックリした」
「いいけど、中野くん、仕事終わったの?」
中野くんは、腕を組んで一瞬考え込んだけど、「いいです」と言い切った。
「ホントは戻ってちょっと仕事しようと思っていたけど、いいです。多分さやかさん、僕が仕事終えるのを待ってくれないでしょ?」
「当たり前じゃない」
中野くんにしては、正しい判断だ。
駅の近くの韓国料理屋に行くことにして、ラテを飲み干してからスタバを出た。
中野くんは嬉しそうに、歩きながらべらべらと喋っている。今日行った営業先で褒められたこと、こないだの同期の結婚式、明日のサッカーの試合、テレビが壊れたこと。私がふんふんと適当に相槌を打っているのを聞いていると勘違いしているのか、酔っ払ってもいないのによく喋った。
急に心臓が飛び跳ねて、足が止まった。
サラリーマンとOLで埋め尽くされた歩道の向こうから、澤村さんによく似た人が歩いてくる。違う、澤村さん本人だ。
見たことがある薄い紫のシャツとネクタイ。いつものサムソナイト。
夕方でも疲れを見せずに、ひとりでテンポ良く歩いている。姿勢のいい澤村さんは、どんなに大勢の中でもよく目立つ。
「さやかさん?」
立ち止まった私を、中野くんが心配そうに振り向いて見た。
二人の距離は数メートル。さすがに澤村さんが気付いたようで、私を見る。
反射的に私は澤村さんから目を逸らし、「なんでもない」と言って中野くんの腕に自分の腕を絡めた。澤村さんからの視線を痛いほど感じるけど、そっちは見ないようにして、早足で立ち去った。
韓国料理屋は、全席個室になっていた。「これでさやかさんがとんでもない発言をしても大丈夫」と中野くんが言っていた。紅いシェードのランプで、照明は暗く抑えられている。インテリアは韓国料理というよりイタリアンみたいにモダンだったけど、メニューは全部韓国料理だった。
キムチの盛り合わせ、サムギョプサル、海鮮のチヂミを肴にマッコルリを飲む。
「オヤジみたい、さやかさん」
「なんで?」
ボウルのような大きい器から柄杓でぐい飲みにマッコルリを注いでいると、中野くんに言われた。中野くんはビールでプルコギを食べた後、レモンサワーなんて可愛いものを飲んでいる。
「強い酒がぶがふ飲むしさ、セックスとか平気で言うし」
中野くんはそう言って、口を尖らせる。顔はもう赤い。マッコルリはそんなに強い酒でもないんだけどな、と思ったけど、黙っておいた。
「あいにく、飲めるのに飲めないフリする趣味はないの。セックスした相手に初心なフリするとかもね」
「仕事のときのさやかさん、見てみたいなぁ」
「中野くん、話聞いてる? 今ずいぶん飛んだよ」
「こんな美人なのにオッサンみたいでさ、で、仕事のときはどうなんかなーって思ったんです。どんな有能秘書サンなのかなって」
「大して有能じゃないわよ」
オイキムチをぼりぼり齧る。歯応えと辛味がちょうどよくて、好みの味。
「有能じゃなかったら、社長さんの秘書なんかできないでしょ」
「ついていた人が、たまたま社長になっただけよ。私が経営とかに貢献しているわけじゃないわ。中野くんも出世して役員さんになったら、若くて可愛い秘書をつけてもらえるわよ」
ぽん、と肩を叩いたが、目尻を赤くした中野くんの反応は悪い。
「さやかさんがいいなぁ」
と、うっとりしたような調子で呟いている。
「何が?」
「若くて可愛い秘書さんとかじゃなくて、さやかさんがいいって言ったの」
本格的に酔っ払っているみたいだ。水でも飲んだ方がよさそう。「お水もらう?」と店員を呼び出すブザーに手を伸ばしかけると、「要らない」と制された。
「酔っ払ったついでに言うけど、僕、さやかさんにマジでかなりハマりました」
カクテキに箸を伸ばしたが、つい引っ込めてしまった。
「最初の呑み会からキレイな人だなって思ってたけど、しっかりしてるし、ちょっとミステリアスだし、なんていうか、今まで僕の周りにいなかったタイプです」
あんまり直球なので、つい遮るのを忘れて赤い顔して告白する中野くんの様子を観察してしまった。この子は、私みたいなタイプが「美人でしっかりしていてミステリアス」って何百回も言われて、慣れきって麻痺しているなんて想像できないんだろうな。
「それにその……、こないだのえっちも、相当よかったし」
そりゃそうだろう。若い男子とは場数が違う。
「あれから、僕すっごい考えました」
「何を?」
「さやかさん、僕じゃダメかな、とか。ダメだよな、満足できないよな、もっと大人の方がいいよな、とか思うんですが、でも僕はさやかさんがいいなって」
何を考えたのか、結局よくわからない。
「付き合ってほしいんですけど……、ダメですか?」
よく懐く犬は可愛いけど、それが恋かと言われると難しい。と答えると、この子はショックを受けるだろうか?
私が黙っていると、中野くんは大きな溜息をついて「すいません」と言った。
「カレシがいるんですよね。やっぱ、ダメですよね」
「カレシ?」
呑み会で、ブレスレットからカレシの話が出たのを思い出した。澤村さんのことをカレシと呼んでいいものかどうかは、やや微妙だ。中野くんの質問には答えず、私は正直な気持ちを言った。
「うーん、中野くんはいい子なんだけどさ。今私と付き合うと、私、中野くんのこと利用しちゃうと思うんだよね」
「利用?」
「例えば、淋しさとかヒマを紛らわすのに使っちゃう、とか。悪いけど、こないだのセックスも中野くんのことを好きで好きでたまらなくてしようって言ったわけじゃないのよ」
ショック受けるかな? と警戒しながら言ったけど、中野くんは身を乗り出してきた。
「そんなの僕、全然構いませんよ! どんどん利用してください!」
「そう言うけど、中野くん傷つくと思うよ」
「そうかもしれないけど、何のチャンスも与えられないより、ちょっとでも繋がっている方が希望が持てます」
ポジティブな子だ。憎たらしいくらいに健全。
澤村さんから受けた傷を、そっくりそのままこの子に移したら、それでも中野くんは私のことを好きだと言えるのだろうか。
韓国料理を食べ終えた後、駅裏の侘しいラブホテルを初めて使った。
やたらとけばけばしいネオンだけでもげんなりするけど、狭い部屋にぎゅうぎゅうと押し込まれたダブルベッドと、いかがわしい色の照明は、かえってやる気を殺ぐ。
中野くんの家は遠いし、私の部屋に中野くんを上げるのは、なんか抵抗があった。けれど、どうしても中野くんがしたいというので、こんなホテルに入ることになってしまった。私のテンションが低くても中野くんはお構いなしで、部屋に入った瞬間から抱きついてきた。シャツのボタンを引きちぎりそうな荒々しさ。お酒と汗が混じった肌の匂いは、若さでむせそうだ。
一通り済んだ後、私はタクシーを拾って帰ることにした。「一緒に泊まろう」と言い張る中野くんに、明日も同じ服で会社に行くなんてとんでもない、と主張した。ネクタイ一本で着替えたように見せかけられる男性は気楽なものだ。叱られたチワワのように、私が身支度を整えるのをおとなしく眺めていたけど、部屋を出ようとするとまた抱きついて脱がそうとする。また今度ゆっくりとね、と言い聞かせて、なんとか趣味の悪い部屋を脱出できた。
駅まで戻ってタクシーを捕まえ、住所を言ってシートに身体を沈めた。窓ガラスに映る顔が疲れている。マスカラは剥げているし、アイラインは溶けている。こんな時間まで化粧しているのは、無謀としか言いようがない。もう時間が遅いけれど、きちんとパックしておかないと、明日の(というか、もう今日の)顔はひどいことになりそうだ。
ハンドバッグからスマホを取り出すと、澤村さんからの着信が三件入っていた。けど、メールは入ってなかった。

 

澤村さんからの電話は珍しい。
そして、私からかけるのは、もっと珍しい。
私がかけても大抵留守電につながってしまうし、まずいタイミングでかかるとブツッと切られるのが哀しい。だから、もっぱらメールで連絡を取っていた。
珍しいことをするのは、緊張する。
昼休み、非常階段で電話をかけた。
三コールで「はい」という澤村さんの低い声が聞こえる。
「私。昨日は電話出られなくて、ごめんなさい」
いや、こっちもごめん、という言葉が、ザワザワした音と一緒に聞こえる。食堂にでもいるのだろうか。
「今日行くから。また会社出るときにメールする」
「うん、わかった」
電話は、すぐに切れた。

ボスが出張に出た後に片付けようとしていた仕事はあったけど、さっさと家に帰ることにした。帰り道、スーパーの横を通って何か食材買ってゴハンでも作って待ってようかと思ったけど、やめた。付き合い始めの頃は、家デートのときはゴハンを作って甲斐甲斐しく世話したりもしたけれど、だんだんそんな糠みそくさいことをするのがイヤになってきて、最近はほとんどしない。澤村さんが好みそうな料理を作り、美味しいと言ってくれる澤村さんを見るのはとても楽しいけれど、なんだか奥様に対抗しているような気がしてバカバカしくなったのだ。多分、澤村さんは私にそんな役割を求めてはいない。お酒とおつまみはあるし、買い置きの食材もあるし、足りなければコンビニに行けばいい。
家に着いて窓を開け、Tシャツとジーンズに着替える。一通り部屋の空気が入れ替わると、ひんやりとしてきた。もうすっかり秋の空気の匂いになっている。寒くなって、一枚パーカーを羽織った。ソファに座ってテレビをつけたけれど、どのチャンネルも面白くない。すぐにスイッチを切って週末に買ったファッション誌を手に取ったけど(この秋に買い足すアイテムを決めなきゃいけない)、頭には何も入ってこなかった。
澤村さんは、二十時を少し過ぎた頃に来た。
手には、澤村さんの会社の近くの鮨屋の折り詰めがある。私も澤村さんも好きな鮨屋で、よく行く店だ。鮨のときは私も澤村さんも冷酒と決まっている。澤村さんが洗面所で手を洗っている間、冷蔵庫の野菜室から酒の瓶を取り出して、琉球ガラスのお猪口を二つテーブルに並べた。
ジャケットをコート掛けに引っ掛けて、澤村さんが白いソファにどっかと座る。私がお猪口に酒を注ごうとする前に、澤村さんが口を開いた。
「さやか、昨日の男、誰?」
澤村さんを見ると、不機嫌そうな顔をしている。
驚いた。
この人は、私が他の誰と遊んでいようと、構わないだろうと思っていた。
「会社の後輩の友達。こないだ呑み会で知り合ったの」
正確に言うと後輩の友達の友達だけど、面倒なので端折った。大した違いはない。
「合コン?」
「そうよ」
「さやかもそういうところ、行くんだ」
「そりゃ行くわよ。誘われたら」
「何しに行くの?」
「何しにって、」
お酒を呑みに、と答えかけて、こういうところがオヤジっぽいんだな、と思いとどまった。
「それで、コンパで出会った男と腕組んで歩くわけね」
澤村さんは、眉間に皺を寄せている。
「何を怒ってるの?」
「怒ってないよ」
「怒ってるじゃない。機嫌悪そう」
「そりゃ、自分の恋人が他の男と腕組んで歩いていたら、気分いいわけないだろう」
これは何だろう。
なんだか、ものすごく理不尽なことを言われているような気がしてきた。
「しかもその後、電話つながらないし」
「ゴハン食べていたから、気付かなかったのよ。それにあなただって、誰かとゴハン食べていて、その人が緊急でもないのに電話していたらイヤでしょ?」
「そりゃ俺からの電話じゃ、緊急じゃないよな」
「何が言いたいの?」
「あの男と寝たのか?」
私は、澤村さんを睨みつけて言った。
「寝たわよ」
澤村さんは、私をじっと見る。鮨と酒がぬくまるのではないかというくらい長い時間、二人黙って睨み合った。
「あんな男にさやかを取られると思わなかった」
澤村さんが吐き捨てるように言うのを聞いて、頭に来た。
「何を言ってるの? 澤村さんだって奥様と寝るでしょ? 毎日奥様の待つ家に帰って、それで私が他の男と寝るのはイヤなわけ?」
「そりゃイヤだよ。我慢できん」
「ずいぶん勝手ね」
「勝手なのはわかってる」
「わかってない。私もイヤな思いしてるって、わかってて言ってるの?」
「自分が我儘だってのは、わかってるよ。さやかには悪いと思っている」
なんだか、変なの。
こんな澤村さんを見るのは、初めてだ。いつでもスマートであろうとする男の、混乱する様子。折り詰めの包装紙を破り、大好きな雲丹の軍艦巻きを口に放り込んだ。そして、ソファに並んで腰掛けて、澤村さんの好物のコハダを澤村さんの口に押し込む。
「私を独占したいの?」
澤村さんの太ももに、自分の左脚を引っ掛けて、聞いた。
「そりゃあしたいと思ってるよ」
「それなら、私が遊ぶヒマもないくらいに捕まえていればいいのに」
雲丹くさいだろうと思って唇に軽くキスすると、澤村さんは私の肩と首を捉えて舌を入れてきた。そのままソファに押し倒し、「どうやってあの男に抱かれた?」と聞いてくる。なんだか嗜虐的な気分になって、中野くんが何を囁いてどう愛撫したのか教えてあげた。澤村さんはひどく苦しそうな顔をして、昨日中野くんが触った私の身体のあちこちを、丹念にキスしていた。そんな澤村さんが、とても愛しくて可愛い。結局私たちは、鮨が乾くまで抱き合っていないと気がすまなかった。

 

夢を見た。
いつもの、コンクリートの塔の夢。
階段を昇りきったところの踊り場は、意外と狭い。かなりの高さを昇ってきたはずなのに、息苦しいほどせせこましかった。
目の前に、色彩がある。こんなことは初めてだ。
三つの、黄色の扉。
私は考えた。どれかを選ばなくてはいけないことは、なぜか私にはわかっていた。右か、左か、中央。私は考えた。
一歩前に出て、中央の黄色い扉を開いた。古い団地の玄関のような、スチールの扉。少し重くて、冷たい。扉を抜けて後ろを振り向くと、三つの黄色い扉があった。結局、どの扉を選んでも同じ場所に出たということだろうか? それとも、右や左を選んでいたら、また違う場所に出たのだろうか? わからないけれど、重い扉はゆっくり閉まり、ガシーンという音を立てて(それは私の耳には届かなかったけど、多分ガシーンという音を立てて)閉じてしまった。
扉から目を離し前を向くと、そこには海が広がっていた。
紫色の、果てしなく広い海。
私は塔を昇ってきたはずなのに。空は薄い桃色と藤色が混ざったような色で、それを映した海は深い葡萄色をしている。足元を見ると、黄色いゴムボートが繋がれていた。
背後の扉は、きっと二度と開かない。私は選んでしまったのだ。
水平線すら見えない海。ここに私はこんな小さなボートで乗り出さなくてはいけない。そんな危険なことをしたくないと思っているのに、私は自分がボートに乗り込むことを止められない。
まるでそれが運命であるかのように。

 

心臓が、どくん、と跳ねた気がして、目が覚めた。
ベッドの中がやけに暑くて、汗をかいている。横を見ると、澤村さんの寝顔があった。いつの間に眠ってしまったんだろう。
目が覚めた原因は、すぐにわかった。ベッドサイドテーブルの上で、スマホがぶぶぶと震えている。中野くんからのメール。バイブを切って、スマホをテーブルの上に戻した。
なんか、夢を見ていたような気がするけど。忘れてしまった。
もう一度枕に頭を戻すと、寝ぼけた澤村さんの腕が私の身体を抱き寄せた。お互いの汗ばんだ肌が、ぴったりと吸いつきあう。
こういうとき、私がこれ以上ぴったりする場所は世界中探してもないんじゃないか、と思う。

秋の水族館は侘しいけど、その侘しさがいいと思う。
中野くんは、そういう私の侘しさをまったく無視して、今日も明るくはしゃいでいた。その屈託のなさが、中野くんの美点とも欠点ともいえる。
深海魚の展示コーナーが好きだ。タカアシガニとかホウライエソとかオニアンコウとか、奇怪で静かな生物たち。薄暗い水槽の中でじいっとしているのを見るのは、とても落ち着く。
「変わってますよ、さやかさん」
休日の中野くんは、たいていだぼだぼのジーンズを穿いている。今日は、それにチャコールグレーのシンプルなタートルネックのセーター。スーツのときより若く見える。気取ったレストランに行ったりするのには、不向きなボーイフレンドだ。
「普通女の子って、ペンギンとかイルカとか熱帯魚とか、可愛いものが好きなんじゃないですか?」
「いいのよ、別に。普通の女の子であろうとすることには、まったく意味を感じられないんだもの」
そういうところが変わってるんですよ、とぶつぶつ文句を言っている中野くんも、奇妙な形の生き物を、これすげーとか言いながら熱心に見つめている。
並んで水槽を眺める私たちは、傍から見ると普通のカップルに見えるんだろうなと思う。実際、ときどき一緒にゴハンを食べたり、ときどき休日に一緒に出かけたり、ときどきセックスする間柄は、普通は恋人同士と呼んで何の差し障りもないと思う。けど、中野くんに猛烈に惚れているかというと、それは違う気がする。中野くんに宣言した通り、ヒマを潰したり気を紛らわしたり、そういう相手としては重宝しているけれど。
実際、澤村さんと付き合いだしてからというもの、私は週末を持て余し気味だった。今でこそ慣れたけど、土日に誰とも(もっとはっきり言ってしまうと男と)過ごさないというのは、最初の頃は落ち着かないほどにヒマだった。中野くんが現れて、ああ週末に誰かと過ごすというのはこんなカンジだったな、と思い出した。久しぶりのそれは、びっくりするほど煩わしい。
中野くんが伸びをしながら「あー、腹減った」と呟いた。
「さやかさん、お昼食べようよ。この水族館、中にレストランありますよ」
もう少しゆっくり深海魚を見たかったけれど、空腹を訴え出した中野くんは、何か食べないとホントに「腹減った」を繰り返す。仕方なく経路案内を辿りながらレストランに向かった。
「あ、テラス席がある。海が見えるし、せっかくだから外で食べませんか?」
「いやぁよ、寒いのに」
男性の体感温度っていうのは、まったくいかれている。
「大丈夫ですよ。僕が温めてあげますから。」
ふざけながら中野くんは、私の肩に腕を回す。

男と過ごす週末っていうのは確かに煩わしくて面倒くさくて疲れるのだけど、昼間の明るい外で肩や腰を抱きあえるっていうことだけは、甘美だ。誰にも咎められない関係だという快感。
恋している相手でもないのにそう思えるのは、とても不思議。