美人の憂鬱 3.冷たい夏

夢を見た。

 

薄暗いビルの中。壁も床も灰色に塗り込められている。ちょうど、コンクリート打ちっ放しの内装のようだ。手を触れなくても、ひんやりとした感触が伝わってくる。けれど、それが本当にコンクリートなのかどうか、私には分からない。
私は螺旋階段を昇って、ある場所へと向かっている。その場所をうまく説明することはできないけど、どの場所に向かっているのか自分にはよくわかっている。
けれど、階段は妙に長い。塔の中のような場所を、上へ上へと向かっているらしい。階段の終着点は見えない。窓がなく、薄暗いからだ。窓がないのに、どうして自分の足元は見えるのだろう。まるで、私自身が発光する生き物のよう。深海でも触覚で周りを探る魚のよう。
先が見えなくて不安に駆られるけど、でも私は昇るしかないというのが自分にはよくわかっている。

不思議と、長い階段を昇っているのに息切れはしない。どこまでも昇っていけるような気がする。これは夢だから、と、頭のどこかで考える。少し足を止めて、上を仰ぎ見る。上に行けば行くほど薄暗くなり、天辺は闇が濃く広がっている。こんなところから、さっさと抜け出してしまいたい。でも目覚めることはしない。途中で止めることはいつでもできるのに、私はそれを自分では選ばないということを、自分でよくわかっている。

 

澤村さんは、取引先の会社の社長秘書をしていた人だ。今は、営業に異動してしまったけれど。

社長さんと私のボスが大学の同期ということもあって、仕事以外でも個人的に会食したりゴルフをしたりする機会が多く、澤村さんとやり取りをすることが自然と多くなっていった。
「よろしければ今度食事にでも」
何人もの人に何回も言われたセリフだけど、澤村さんが言うと、不思議といやらしさがなくさらりとして聞こえた。で、私はついついそれに応じてしまった。実際には、澤村さんに下心があったわけだけど(でも澤村さんに言わせると、最初はそんなつもりはなかったと主張する)。

街路樹の緑が、いつのまにか濃くなっている。
オフィス街でも、一応季節というのは規則正しく巡ってくるものだなぁと、ぼんやり感心した。いつものスタバの窓際のソファに座り、ラテの入ったマグカップで手を温めながら外を眺める。気の早い冷房のせいで、店内は寒いくらい。オフィスと一緒で、ここはジャケットとネクタイをきっちり身に着けたサラリーマン仕様の設定温度になっているらしい。
秘書室に、ジャケットを置いてきたことを後悔した。七分袖のシャツだけでは冷える(七分袖や九分袖は華奢な手首を際立たせるので大好きだ)。ラテで温めた手を、ストッキングの脚に沿わして少しでも温める。左の手首には、タンクに重なって星のチャームがついたブレスレットが揺れている。脚の先には、ベージュのポインテッドトゥのパンプス。今年の春に買ったものだ。肌なじみがよく脚が長く見える。少しシャイニーで、華やかでもあるところが気に入って買った。
澤村さんが大股に歩いてくるのが見えた。
すぐに私に気がついて、軽く手を上げて見せる。今日は紺色のスーツ。薄い水色のシャツに、落ち着いた黄色のネクタイ。
社長秘書を外れて初めて、澤村さんがカラーシャツを着るのを見た(男性秘書は、白いシャツを着ているほうが無難だ。いつ何時重要な何かが飛び込んでこないと限らない)。目尻に皺を溜めて爽やかに笑う澤村さんに、涼しげな水色のシャツはちょっと反則じゃないかと思うほど、似合っている。
いつものように「本日のコーヒー」を手に(ただしアイス)、澤村さんが私の隣のソファに座った。
「今日はボスいないの?」
「夕方まで出張」
秘書っていうのは、自分の時間をあまりコントロールできない。澤村さんが営業に行って外出を自由にできるようになって初めて、私たちは時間を合わせて一緒に休憩するようになった。でもそれも、私のボスが不在のときと限られている。
「夕方から戻られるの? 直帰じゃなくって?」
「総会前だから、いろいろあるのよ」
肩をすくめてみせる。今度私のボスは副社長から社長に昇格することになり、決算発表で役員人事を公にしてからというもの、私もボスも忙しい。その辺の事情がよくわかっている澤村さんは、多くを聞かなくても「大変だね」と理解してくれる。
「当分は、さやか遊びに行けないかなぁ」
澤村さんが、氷をからから鳴らしながら、「本日のコーヒー」を口にした。
「えっ。大丈夫よ。澤村さんに会うためなら、何がなんでも時間を作るわよ」
「後輩に仕事押しつけるんだろ」
「そうよ」
「さやか先輩、こわーい」
女の子の喋り方を真似しながら、澤村さんがくすくす笑った。
「だって、日々しようもない雑用が溜まってさ。先輩は文句ばっかりで、後輩は動かないし。ストレスが溜まる一方。これで澤村さんに会えないってなったら、私死んじゃう」
頬杖をつきながら、オーバーに溜息をついてみせる。
「俺も死んじゃう」
澤村さんが、満足そうに笑いながら私を見る。こういうときの澤村さんの目は、とてもセクシーだと思う。
「じゃあお互い死なないようにしましょうよ」
「いいね。さやか、どっか行きたいところある?」
どこかに行かなくても、一日中私の部屋でごろごろしているだけで充分。二人とも裸のまま、始終手足を絡ませあって、抱いては寝て、目覚めては抱いて。そんな時間があれば幸せだ。
「温泉に行きたいな」
「温泉? 暑くなってきたのに」
「空いてていいんじゃない? 美味しいもの食べて、のんびりできるし」
「温泉かぁ。そうだな、いいね」
「ホント? じゃあ宿とか探しておいていい?」
「いいよ。総会が終わった頃にでも、打ち上げを兼ねて行こう」
株主総会なんて、明日にでも終わればいい。

 

澤村さんが、食事にせよ泊まりにせよ家を空けるとき、奥様に何と言い訳しているのかは、知らない。
そんなの、私の知ったことではないから、訊ねない。

 

温泉を決めるのは、意外と難航した。

食事を食べているときはついお喋りに夢中になってしまって宿の相談をするのを忘れてしまうし、澤村さんがうちに来ているときはセックスに忙しくて、これまた忘れてしまうからだ。
澤村さんが調整してくれて、日程だけは七月の初旬とさっさと決まったけれど、結局宿はそれに合わせて空いているところをギリギリに捜すという具合になってしまった。なので、全部希望通り、というわけにはいかなかった。できれば、海を見ながら露天風呂に入れる宿がよかったのだけれど。
「それでも、露天付客室だろ? 部屋食だし。ゆっくりできるから、いいじゃん」
澤村さんが、青いプジョーの運転席で笑う。
「そうだけど。でも、海が見える開放的な露天風呂って気持ちいいじゃない」
「いやぁ、うん、そうだね」
なんだか、歯切れの悪い言い方をする。
「なあに?」
「そんな開放的な風呂に入っていたら、さやかのエロい声が海中に響き渡って心配になるかもしれん」
「そんなわけないでしょう!」
白いポロシャツから伸びた、澤村さんの逞しい左腕をはたく。
私も澤村さんも、浮かれていた。二人でこうやって泊まりで遊びに行くのは、初めて。
澤村さんの出張先に私が付いていったり、日帰りで遊びに行ったりはしたけど、こんな風に普通の恋人のようにのんびり出かけられて、嬉しい。
今日は、澤村さんの左の薬指に指輪が光っていない。
澤村さんが、私だけのものだっていう錯覚に陥る。錯覚でもいいや、今日と明日だけは堪能しよう。

宿には、一時間くらいで着いた。運転が大変だと思って近場にしたけれど、もっと遠くの宿にすればよかったかもしれない。運転中の澤村さんを独り占めできる時間がもっと長く欲しかった。砂利の敷き詰められた狭い駐車場にプジョーを押し込んで、ハッチバックから荷物を取り出し、仲居さんたちがずらずら並んでいる旅館の玄関に向かう。にこにこと愛想のいい仲居さんたちに二人揃って迎えられると、なんだか本当に夫婦にでもなったような気がする。目ざとい仲居さんには、不倫カップルだってことがばればれかもしれないけど。
部屋は十畳くらいで、旅館にありがちな大きい座卓が鎮座していると狭いくらいだけど、窓から見える坪庭は思ったりより広く、手入れもきちんとされていて素敵だった。庭の隅には岩で造られた小さい露天風呂がある。「部屋風呂も源泉かけ流しですから」と、仲居さんが誇らしげに紹介していた。
「畳って、いいねぇ」
澤村さんが、座椅子でそっくり返るような姿勢を取りながら、しみじみと言った。
「秘書が淹れたお茶は旨いし」
「私、なんだかドキドキする」
「なんで?」
「畳の部屋にいる澤村さん見るの、初めて」
澤村さんは茶卓に湯呑を置いて、私の座っている座椅子に近寄ってきて、囁いた。
「俺も、畳の部屋でさやかを犯すの、興奮する」
結局、部屋の露天風呂を使ったのは、夕食の時間まであと小一時間というときだった。畳の上で散々セックスして、手足や頭の中身が痺れているような気がする。お湯と澤村さんの体温に温められて、痺れがいつまでも収まらない。少し狭い(でもマンションのお風呂より充分広い)湯船に二人で浸かった。澤村さんが、後ろから私を抱きすくめるように。澤村さんの肩に頭を預けて、背中や腕で澤村さんの身体の感触を楽しむ。
「ああ、やっぱり必要」
「何が?」
「澤村さん。欠乏すると、禁断症状が出る」
澤村さんが、私の耳たぶを甘噛みする。
「俺も。しばらくさやかを抱かないと、おかしくなりそう」
そういうんじゃないんだけどな、と思いながら、澤村さんの唇と歯が気持ちいいのでそのまま耽溺した。
「二人でお風呂入るの、初めてね」
「うん。まずいな」
「なんで?」
「またしたくなる。風呂の中でしたこと、ないじゃん?」
私の脚のつけねに手を伸ばそうとする。私は笑いながら腕をつかんで止める。
「ダメよ、もう夕食の時間じゃない。仲居さんが来ちゃう。」
しつこく私の身体をまさぐる澤村さんを止めながら二人がなんとか浴衣を着るのと、仲居さんが部屋に入ってくるのは、ほぼ同時だった。
旅館というのは、どうしてこんなに料理が多いのだろう。
先付けも椀も焼き物もとにかく座卓に山盛りに出されて(ここで初めてテーブルが大きい意義を見出す)、刺身が温まるのや天麩羅が冷めるのを心配しながら食べ進めなければならない。でも、すっぴんで寛ぎながら、自分で用意しなくてもたくさんの料理が出てくるのは、やっぱり快適。お酒のつまみが足りないかな? と心配する必要もない。海の傍だから、魚介類が美味しいのも満足。澤村さんも私も冷酒を次々と開けていった。
「いいね、さやかの浴衣」
「そお? 澤村さんの浴衣姿もなんだかセクシーよ」
「浴衣のいいところはさ」
そう言いながら席を立ち、また私の横に座り込む。私の両腕を捉えて、そのまま袖口から手を突っ込んで肩まで滑らせ、浴衣の中で私の乳房を掴んだ。「ご飯が食べられないじゃないの」と文句を言うと、右手だけ解放してくれて、自分は右手に私のお猪口を取ってまた酒を呑む。
「今日は酒の肴には困らないなぁ」
「これだけ品数があるものね」
「さやかもいるしね」
澤村さんは私を膝に乗せて、左手で私の胸や太ももを撫でながら、右は箸やお猪口を手にしていた。日本酒と温泉で身体はすっかり温まっているし(正直初夏には汗ばむほど!)、澤村さんを座椅子にしてだらだらと過ごせる時間が贅沢で心もすっかりほぐされた。こうしていると、澤村さんが私だけの男だという錯覚に満たされて、なんだか幸せになってしまう。

と、急に眩暈がした。

と思ったけれど、澤村さんが私の腰を抱く腕に力を込めたから、私だけの感覚でないということはすぐに分かった。
地震だ。
一瞬、二人して息をのむ。

息を潜めて揺れの様子を見守る。座卓の上にずらりと並べられた食器のいくつかが、かたかたと不安そうに音を立てた。
この瞬間、頭の中ではすごい勢いでいろいろなことを考えていた。
澤村さんの腕の中にいるのはとても心地よいし安心だけど、きっとこのまま大揺れがきても澤村さんはずっと腕を放さずにいてくれるとは信じているけれど、本当にこのまま大きい地震になったらどうしよう? 偽名を使って泊まっているけれど、緊急時に誰かと連絡を取るとなったら二人でこうしているのがバレてしまうかもしれない、そうなったらどんなに面倒なことになるか、どうしてよりによってこんな日に地震なんか起きなくたってよさそうなのに、ああ今日はそういえばボスはゴルフだったけど、この時間ならもう終了して家にそろそろ着く頃? よかったけれど、ドライバーと一緒にいるときの方が連絡つけやすいのに、後で一回電話しておかなきゃいけないかも。

数秒後、大きな揺れは来ずに、そのまま地震は収まった。
二人で大きく息を吐き、全身の緊張を解く。
「びっくりした……」
「ひどい揺れじゃなくてよかったな」
「震度、どれくらいだったのかしら」
膝から私を下ろして、澤村さんはテレビをつけた。ちょうどテロップが出ていて、この辺りは震度三とある。
「震度三かぁ。もっと揺れたかと思った」
「震源がここなら、津波はないかな」
「やあね、こんな海の傍にいて津波が来たら」
ふいに部屋の電話が鳴って、心臓をぎゅっと掴まれたようにびっくりした。テレビの前に立っていた澤村さんが取った。
「ああ、はい。──いえ、大丈夫ですよ」
受話器に手を当て「フロントから」と私に向かって言う。もう一度溜息をついて、落ち着いた。
あ、そうだ。
一応ボスに電話をしておかなくてはいけない。ハンドバッグからスマホを取り出して、洗面所に出た。自宅に電話をすると奥様が出て、特に変わったことはないという。今日は早めに帰宅されて、今は書斎にいるとのこと(多分、金曜に持ち帰った仕事をしている)。電話を代わるという奥様を制し、手短に挨拶して電話を切った。念のために秘書室長にメールで無事を報告しておいた。
やれやれ、やることはこれでやったわよ。
部屋に戻ると、澤村さんも電話していた。旅館の固定電話ではなく、自分のスマホで。
「──うん、俺の方は何もないから。うん、分かった」
さっきまで温まっていた身体が、一気に冷えていくのが分かった。掌に冷たい汗が広がる。
……自宅に──奥様に電話しているんだ。
「うん、じゃ。気をつけて」
私を見て、慌てたように電話を切った。
「ボスに電話?」
何事もなかったように(それが却ってそらぞらしいほどに明るく響いて聞こえる)澤村さんが私に訊ねた。
「うん」
「大変だね、秘書は」
澤村さんはスマホを何度かタップした後、なんでもないようにボストンバッグに放り込む。私は力が抜けて、畳にぺたんと腰を下ろした。
手足は冷えているけれど、内臓は火に炙られたように熱い。胃液が身体を巡っているように、全身が苦い。
私と一緒にいるときに、奥様の心配をしている。それに私は嫉妬してるんだ……。
黙っている私を見て、澤村さんはまた私の横に腰を下ろした。
「どうした、地震が怖かったか?」
さっきまでスマホを握っていた手で、私の身体を抱き寄せようとする。私は、ついその手を振り払ってしまった。澤村さんが腕の動きを止めて、私の顔を覗き込む。私、どんな顔をしているんだろう。
「……どうした?」
「帰らなくて、いいの?」
子どもみたいだ、私。嫉妬して、拗ねている。
つけっぱなしになっているテレビから、週末のゴールデンタイムによくある、間延びしたクイズ番組の音が聞こえる。その合間に、神経を逆撫でする緊急速報の硬質なチャイム。
「帰らないよ。──ほら、津波の心配もないって。大した地震じゃないし」
そうじゃなくて、奥様が心配じゃないの? という言葉が口から出てこなかった。妻が心配でたまらないから電話して確認したんだよ、と説明してほしい。でも、妻が不安がっているからやっぱり帰るよ、なんてことは聞きたくもない。だから、私はむっつり黙って、畳の目をみつめていた。
「帰らないよ」
全身を緊張させている私を強引に抱き寄せ、澤村さんは「よしよし」と言いながら頭を撫でてくれた。
「不安がってるさやかを置いて、帰らないよ」
今日は、と。今日のところは、と、私は心の中でこっそり付け足す。

 

澤村さんには、出会った瞬間から奥様がいたし、それはとても当たり前のことだった。
それは、なんていうか、澤村さんには両親がいるとか、きょうだいがいるとか、そういうことのように自然で普通のことだった。
でも、やっぱり妻は妻で、私は通り過ぎてく愛人なんだ。
ふかふかの羽根布団に、障子の格子の影が落ちる。布団の上の私の身体と、澤村さんの肌にも弱い光に照らされた格子模様が揺らめいている。澤村さんは、私を宝石のように大事に愛撫しながら、奴隷のように乱暴に抱く。
「もし大地震が起こっても」
私の上の澤村さんが、私の左耳を噛みながら囁く。
「さやかと離れたところに居ても、すぐに駆けつけるよ」
きっと、そんなことはないだろうってことはわかっているけれど、でもそういう頼りない口約束にとんでもない重さの期待をかけている自分も確かに存在する。
こんなにも澤村さんに自分を預けてしまったら、いつかきっと崩壊するとわかっているのに。

 

澤村さんと週末べったり一緒に過ごすのは、ある意味死活問題だ。
と、給湯室でサーモマグに冷茶を注ぎながら、考えた。冷茶は来客用に作り置きしているものだけど、皆ちょこっとずつ自分で飲んでしまっている(そして結局作り足すのは自分達)。
土曜の夕方旅館に入ってから日曜の朝まで、少しまどろみながら結局ずっとセックスしていた。温泉とセックスで泥のように疲れていたのに、それでも青いプジョーは私のマンションの前で駐車して、澤村さんはうちでも私を抱いた。いわく、「せっかく温泉で肌がつるつるだから」と「いつもの部屋で落ち着いたセックスもまたよし」だそうな。
おかげで私は、今日は一日身体がふわふわしている。長時間飛行機に乗ったときのような、けだるさ。ちっとも仕事に集中できない。周りの皆は、私が週末のセックスのひとつひとつを反芻しながらパソコンに向かったり電話を取ったりしているなんて、思ってもみないんだろうなぁ。首をぐるりと回して肩をほぐしながら、そんなことを考える。
「さやかさん!」
マリが給湯室に入ってきた。狭い給湯室は、二人もいるとぎゅうぎゅう詰めになる。
「飲む? お茶」
「あ、いただきますぅ」
ピッチャーをマリに手渡すと、マリはミッフィーがでかでかとプリントされたマグカップに、たっぷりと冷茶を注いだ。来客に出すお茶も、なみなみと注いでいやしないかと心配になる。
「あ、さやかさん、今日の夜ヒマですかぁ?」
「今日の夜?」
「伊東さんが言ってたんですけど、コンパやるんですって。なんか、伊東さんの同期を誘っていたらしいんですけど、二人とも急に仕事の都合でダメになったみたいで。マリちゃん行かないーってさっき誘われたんです」
「予定はないけど。でも、若い子連れていけばいいのに」
これは真剣にそう思う。三十路まで秒読みになると、合コンでの男子の食らいつき方が以前と全然違う。秘書室に二十代前半の子だっているし、伊東もマリも二十代後半なのに、ここでもうすぐ三十の私を追加することはない。
「違うんですよー。なんかぁ、伊東さんが言うには、二十歳そこそこのギャルを連れてくるのはやめてって言われているんですって」
「へえ。変わってるね」
「さやかさん来たら、男子喜びますよ。オトナのオンナの魅力ってカンジで」
どうだか、と思いながら、こんなにふわふわしていると夕食を作るのも面倒だし、行くことにした。
行く前に、澤村さんに合コンだってメールしておこう。少しは焦ればいい。
身体の中も外も澤村さんの感触が残っているのと同じように、あの電話のときの苦い思いもまだ私をざらりと舐めまわしている。

十八時半。
私たちが店に行くと(駅前の、創作料理といえば聞こえがいいけど、何でも節操なく出す居酒屋)男性陣は既にテーブルについていた。
ひとりが伊東の同期。他のふたりは、伊東の同期の大学の同級生と先輩らしい。最初に名前を聞いたけど、さっぱり覚えられないので(覚える気もないので)心の中で勝手に記号をつけた。
伊東の同期が、うに(髪の毛をやたらとワックスでつんつんさせている)。
その同級生が、チワワ(やけにくりくりとした目をしている)。
先輩が、豆腐(顔が四角くて、白い)。
これで識別をつけて一安心した私は、ゆっくりお酒のリストに没頭することができた。
伊東とマリは楽しそうに話している。マリは日頃から甲高くて甘ったるい声を立てているけれど、普段は落ち着いている伊東もテンションが高めだ。お酒が入っているせいかもしれないけど、男子を前にすると伊東もこうなるんだ、と新しい発見だった。
「さやかさん、次のお酒どうしますか」
チワワが聞いてきた。新潟の吟醸酒が、残り少なくなっている。
「あ、じゃあ同じものを」
刺身が思っていたよりおいしかったので、続けて日本酒を飲むことにした。週末から日本酒続きだ。刺身は旅館の方がおいしかったけど、好きなものをちびちび適量食べるのは、やはりいい。
「お酒強いんですね」
チワワが鳴くと、ファジーネーブルで頬を染めたマリが会話に入ってきた。
「さやかさんはね、秘書室で一番お酒が強いのよ。ねっ、さやかさん」
ジュースのようなお酒で、よくこんなに気持ちよく酔っ払えるものだ。そして、女子だけの呑み会だと、マリは必ず最初にビールを飲んでいるのに今日は飲んでない。
「そうね。今のメンバーだと一番強いかもね」
「かっこいいですよねー、さやかさん。男前です!」
わけのわからない誉め言葉を吐いて、マリはまた豆腐やうにや伊東たちとの会話に戻っていった。私は、黙って新しいグラスに口をつける。チワワはにこにこしながら、皆のお喋りを聞いていた。
「さやかさんはね、謎! 謎ですよ。ミステリアス!」
ビール一杯とカシスソーダで、伊東もすっかり出来上がってしまったようだ。豚肉とモヤシの蒸篭蒸しを食べているときに、急にこっちに矛先を向けてきた。
「ああ、そんな感じ。わかる」
チワワが何をわかったのか知らないけど、しきりに頷いている。
「伊東、烏龍茶頼んだら?」
「ダメです、ごまかしちゃダメですよ、さやかさん。今日は、ちゃんと話してもらいますよ」
「何、さやかさん、なんか隠してるの?」
うにが酔っ払い伊東の話に乗ってくる。こっそり舌打ちをした。
「マリね、知ってますよ。さやかさんのブレス、カレシからですよね。ラヴですよねー」
「うそ、ホント?」
全員の視線が、私の手首に注がれた。星が揺れている、華奢なブレスレット。豆腐とうには好奇の目で、チワワは少しガッカリしている。マリの余計な発言は癇に障るが、こういう瞬間の男の目は雄弁だ。
「どうかしら」
わざわざ左手でグラスを回し、チャームを揺らしてみせた。
「えー、なんでいっつも隠すんですか? さやかさんからカレシとかの話って、聞かないですよねぇ」
伊東が口を尖らせる。
「ひょっとして、言えないような相手?」
酒が回って赤くなり、もはや豆腐とは呼べない豆腐が言った。
「そうよ。不倫相手」
もう一度、全員の視線が私を突き刺した。伊東やマリは目をいっぱいに見開いて、男子たちは引いている。
グラスに少し残っていた日本酒を喉に流し込み、ゆっくりテーブルにグラスを戻してから、艶然と微笑んでみせた。
「冗談よ」
「なあんだ、ビックリするじゃないですかぁ」
マリがいつものように甘ったれた鼻声で答えた以外、誰もそれ以上は突っ込んでこなかった。

二十一時。
スタートが早かったせいか、お開きになった時間はまだ宵の口だ。冷房が効きすぎていて店内は寒いくらいだったけど、外に出るともあっとした湿気が身体を包む。いつもならもう一軒行くところだけど、さすがに今日は疲れているみたい。普段より飲んでない割には、結構回っている。そして、まだセックスの余韻が残っていて、さらに私をふわふわさせていた。
マリや伊東は家が遠いのでさっさと駅に向かい、男子たちはどこかでもう少し飲むらしい。私は少し歩きながらどうするか考えようと思って、店の前で別れた。
この時間の街は嫌いじゃない。大抵の人はお酒が入っていてちょっとネジが緩んでいるけど、その一方でさっきまで仕事をしていて眉間に皺の寄ったままの人たちも大勢いる。そのどっちに所属していても、なんとなく楽しいし、なんとなくあっち側が羨ましくもなる。この先のブロックは、澤村さんとクリスマスに入った店だ。ブレスレットをするようになってから、もう半年以上経っている。
「さやかさん!」
ふいに呼び止められて振り向くと、チワワが走って追いかけてきていた。
「ああ。どうしたの?」
「えーと、あの。さやかさん、歩くの早いですね。見失うかと思いました」
私の問いに答えてないな、と思いながら、チワワの顔をじっと見る。
「あの、もう一軒行きませんか?」
「皆と行ったんじゃないの?」
わざと聞いてみると、チワワはもじもじしている。こうして立ってみると意外と背が高いのだけど、ひょろんとしていて、やっぱり小動物のような印象を受ける。最近は、澤村さんのストレートな愛情表現に慣れきっていたから、チワワの態度は新鮮だった。なんか、仲良くなりたいんだけど怖くて近寄れない、って感じの、大事に飼われていて人見知りする室内犬と一緒。顔をそらすとそろそろと近づいてくるくせに、手を伸ばすと後ずさりするような感じ。どうしても犬の連想から離れない。ぷっ、と自分で吹き出してしまった。当然、チワワはきょとんとしている。
「悪いけど、今日はちょっと疲れているから、やっぱり帰ろうと思うの。ごめんね」
「そうですか、残念です」
チワワはがっかりした顔をした。
「じゃあ、連絡先聞いてもいいですか?」
「うーん。電話出なかったり、メール返信しなくてもいいなら、いいよ」
チワワは変な顔をした。
「えっ。僕から連絡いくの、やですか?」
「そうじゃなくて、手が離せないときに出なかったりしても、文句言わないならいいよ」
「わかりました」
チワワはワイシャツの胸ポケットからスマホを取り出し、私もハンドバッグから拾い上げた。連絡先を交換して初めてチワワの名前が中野くんということがわかったけど、それは中野くんには黙っていておいてあげた。
中野くんと別れてタクシーを捕まえ、もう一度ハンドバッグからスマホを取り出す。メールの着信、一件。澤村さんからだ。持ち帰られたり、持ち帰ったりするなよ。そう書いてある。あんな小さいワンちゃんみたいな子が言い寄ってきたなんて聞いたら、澤村さんはどう反応するだろう。まぁ、まず間違いなく大爆笑だ。嫉妬したり心配したりはしないに違いない。
とりあえず、もう少し焦らすのも悪くない、と思って、返信はせずにスマホをバッグに戻した。

 

夢を見た。
コンクリートの塔。灰色に塗り込められた世界は、冬の北国のようで気が滅入る。私は螺旋階段を昇って、ある場所へと向かっている。その場所をうまく説明することはできないけど、どの場所に向かっているのか自分にはよくわかっている。
ふいに、階段が途切れた。あれほど頂上が見えず、道のりは果てしないと思っていたのに、急に踊り場のような平坦な場所に出た。後ろを振り返ってみると、闇の中に階段が溶けて、自分がどれだけ昇ってきたのかはわからない。相変わらず窓はないけれど、階段よりもこの場所の方が明るい。

 

中野くんは、意外にというか、見た目どおりにというか、マメだった。
今朝も、早い時間からメールが入った。同期と海水浴に行ってきます! だって。それを私に報告して、どうするというのだろう。
メールの着信音が鳴ると、寝ていてもすぐに起きてスマホに手を伸ばすクセがついてしまっている。澤村さんからかもしれない、と思うと見ずにはいられない。今なら返信すれば、またメールがきたり、ひょっとすると電話がつながるかもしれない、と期待する。
ときどき、絶対電話に出ないだろうなという時間帯(例えば、夕食どきとか)に、わざと電話をかけてみる。そんなときは決まって留守電になる。ワンコールもせずに。もちろん私は、メッセージなんか残さずに、そのまま電話を切るのだ。
中野くんからのメールのせいで朝の六時から目が覚めたけど、真夏の日曜の太陽は、朝っぱらから乱暴なほどの日差しだった。窓を網戸にして風を通し二度寝しようとしたけれど、首筋に髪の毛がはりつき、背中や脚にべったり汗をかいて、不快で眠れたものじゃなかった。せっかくの休日なのに、結局いつもより少し余分に寝ただけ。
諦めてベッドから身体を起こし、汗に濡れた髪を上げてヘアクリップで留めた。カーテンを開けると、太陽の光と蝉の鳴き声が部屋に侵入してきて、くらくらする。暑いせいか、頭が痛い。ミントのクリームをこめかみと首に塗ると、少し落ち着いた。汗でぐっしょりしたシーツを洗濯機に放り込んで回し、冷蔵庫から冷えたペリエを取り出してソファで飲む。夜の間の温気が昼間の風に攪拌されて、ようやく部屋の中が現実の空気に馴染んできた。温風ではあるけれど、新鮮な空気が首筋と脚を撫でて、べっとりしていた皮膚が少しだけ乾く。
なんだか夢を見ていたような気がするけど、思い出せない。知らない間に歯を食いしばっていたのかも。それで頭痛がしたのかもしれない。
昨夜も暑くてろくに食べずに酒ばっかり呑んでいたから、さすがに少しお腹が空いた。冷凍しておいたフォートナム・アンド・メイソンの紅茶のパンを解凍し、刻んだピーマンとオニオン、ベーコン、それにチーズでオムレツを作った。濃い目に淹れたアッサムをミルクティーにして、氷を大量に入れたピッチャーに注ぐ。ピッチャーがあっという間にびっしり汗をかく。
コーヒーテーブルにお皿を並べてテレビをつけると、子ども向けのアニメばっかり。退屈だけど、早口のキャスターが喋る情報番組をつけておいた。降るような蝉の大合唱よりは、ましだ。オムレツを口に運びながらスマホを見る。中野くんからの着信以外、昨日の夜から何も入っていない。金曜の夜、天国になるか地獄になるか、澤村さんからのメールにかかっている。こうやって何も連絡がこないときは、真っ直ぐ奥様のところへ帰っているのだと想像して、憂鬱になる一方だ。
ああ、いやだ。また頭痛の気配がする。こんなイヤな考えに捉われたまま部屋にいると、腐っていきそう。
せっかく休日に早起きしたのだから、外に出よう。
香りの高いミルクティーを喉に流し込みながら考えた。そろそろ化粧水が切れるし、そういえば観たい映画が先週から上映されているはずだ。食器を洗って洗濯して掃除して、シャワーを浴びてスッキリしたら出かけよう。

白いTシャツから伸びた腕とブロンズの華奢なミュールから出た指先が、冷気に晒されて、寒い。ジーンズだから脚は平気だけど、でもこれはこれで外にいるときに汗まみれになって、とても不愉快。なんでこう、そこらじゅう狂ったように冷房をかけているんだろう。籠バッグから薄手のカーディガンを取り出して、慌てて羽織った。
夏休みのシネコンは子どもたちが山ほどいる(多分、人気のアニメが目当てなんだろう)。いつもは目につくカップルも、嬌声を上げる子どもたちの迫力に押されて、なんだかおとなしく見える。チケットを買う人のつくる長い行列。走り回る子どもとポップコーンの匂いは苦手だけれど、混んでいる映画館は嫌いじゃない。ここでは、私は目立つことがない。大抵の人は誰かと連れ立って来ているし、私も地味であっさりした格好をしている。普段かけない赤い縁の眼鏡をつけていると、長い睫毛は目立たない。ジーンズで隠れてしまうと、曲線を描いた脚も魅力を発揮しない。
チケットを買った後、入場開始までまだ五分くらいあるので、コーヒーでも買おうと売店に向かった。強くなるポップコーンの匂い。私の前の前に並んでいた黒いTシャツの男も、ポップコーンを買った。それにビールとコーヒー。勘定を払うために、男がコインケースを薄いブルーのジーンズのポケットから取り出す。黒くて丸いコインケース。澤村さんが使っているのと、よく似ている。
紙のトレイにポップコーンと飲み物を乗せて、男が振り向いた。
澤村さんだ。
心臓が、ぎゅっと縮み上がった。
無意識に私は澤村さんの視界から外れるように後ずさりして、売店の列から離れた。なんでそんなことをしたのか説明できないけど、とにかく澤村さんに見つからないようにした。
澤村さんは、私のことにはちっとも気づいていない様子で、すたすたとロビーを横切っていった。人が溢れている、混雑したロビー。背の高い澤村さんは、人混みに紛れていてもよくわかる。
人混みの中に、ひとり澤村さんに向かって歩いてくる女の人がいた。
澤村さんと、同じくらいの年齢。少し離れているから顔立ちははっきりと見えないけど、澤村さんに向かって笑いながら何か言っている。背が小さくて華奢で、紺色の上品なワンピースを着て白いハンドバッグを持っていた。髪の毛は少し明るめの色で、肩くらいの長さでふわりふわりと揺れている。
奥様だ。
澤村さんは醜悪な匂いのポップコーンが乗ったトレイを持って、奥様を促すようにしてシアターの入口へ向かって歩いていった。横を歩く奥様のふわふわした髪はすぐに見えなくなったけど、背の高い澤村さんの短い黒髪は、二人が角を曲がるまでいつまでも見えていた。

映画館の椅子に身体を預け、どうしてさっき澤村さんに声をかけなかったんだろう、と何度も考えた。いつもお世話になってます、て奥様に挨拶したら、二人ともびっくりするに違いない。
でもきっと、さっきのシーンを何万回繰り返したって、私は同じように隠れてしまう気がした。
観たいと思っていた映画なのに、ちっとも耳にも目にも入ってこなかった。

 

ラブホテルの照明は、無粋だ。
なんでこんなに煌々と照らすんだろう。明るさを落とそうとすると、下品で人工的な青や緑に光ったり、真っ暗で何も見えなくなる。女性から苦情がこないんだろうか。もっとも明るいのは、男性にはウケがいいのかもしれないけど。

やっぱり、どうも蛍光灯がびかびか光っているのは落ち着かなくて(うちで寛ぐときは、いつも電球色にしている)、やたらと広いベッドの上を這うように移動し、枕もとのスイッチで照明を切り替えた。ベッドサイドのスタンドと、フットライトの光だけを残して、安っぽい闇に包まれる。
「明るいの、ダメでしたか?」
大の字になってひっくり返っていた中野くんが、鼻にかかった声で聞いてくる。
「ダメじゃないんだけどね。ちょっと明るすぎて、落ち着かない」
高すぎる羽根枕に頭を落としてシーツにくるまると、中野くんが擦り寄ってきた。暗いところで見ても、骨がごつごつした肩が赤くなっている。すい、と指で撫でると「痛いですって」と笑いながら訴えるけど、私の身体から離れようとはしない。
「タフだなぁ、若い子は」
「何がですか?」
「海水浴に行って、その帰りにセックスなんて。体力あるな、て思ったの」
中野くんは口を尖らせて抗議した。
「だって、せっかくさやかさんが誘ってくれたのに。ここでチャンスを逃したらもったいない」
映画が終わってシネコンの外に出てもまだ強い日差しにイライラして、澤村さんにメールを入れようかとも思ったけれど何を書けばいいのかわからなくて、結局中野くんを呼び出した。海水浴から大慌てで帰ってきた中野くんは、待ち合わせに指定した焼き鳥屋に入ってきたとき、日焼けと緊張で真っ赤な顔をしていた。夕方から飲んでネジが緩んでいた私は、赤いチワワも可愛いじゃないのと思って、二人でさらに飲んだ後、近所のラブホテルに飛び込んだ。
ラブホテルなんかに入るのは、ものすごく久しぶりだ。少なくとも、澤村さんと付き合いだしてからは、ない。私の部屋か、出張先のビジネスホテルやシティホテルを使っている。そして、こないだの旅館。
ああ、あのときも、ふわふわした髪の奥様に澤村さんは電話していた。
澤村さんのことを考えないようにと思って中野くんを呼び出したはずなのに、中野くんとやってる最中も澤村さんのことばっかり頭に浮かんで、困った。澤村さんの肩の厚みとか、肌の匂いとか、腕の太さとか、少し肉のついたお腹とか、形のいいふくらはぎとか、堅くて私にぴったりのアレとか。
さすがに疲れたのか、中野くんは私の横で、満足したような寝息を立てながら眠ってしまったようだ。五分間中野くんの寝息を聞いた後、私はシャワーを浴びようと思って、ベッドからそっと抜け出した。

 

月曜の朝は、一週間の中で最も念入りに身支度をする。
そうでもしないと、一週間仕事が乗り切れないような気がするからだ。

いつもより丁寧に化粧水を押し込み、いつもより丁寧にファンデーションを重ねる(会社に辿りつくまでに崩れてしまわないように)。塗り直したばかりのペディキュア(カリブ海のような鮮やかなブルー)を眺めながら下ろしたてのパンストを穿いて、きちんと足首が締まっているか、チェックする。首と手首と膝裏に、いつもよりワンプッシュ余分に香水を振りかける。
儀式のように支度をしながら、それでも今日はどうしても気分が上がらない。今週は、ダメかもしれない。
スマホに澤村さんと中野くんからのメールが入っているのには気づいているけれど、どっちも開封する気にはなれなくて、一晩放ったらかしになっていた。