美人の憂鬱 2.儚い春

夢を見た。

 

薄暗いビルの中。壁も床も灰色に塗り込められている。ちょうど、コンクリート打ちっ放しの内装のようだ。手を触れなくても、ひんやりとした感触が伝わってくる。けれど、それが本当にコンクリートなのかどうか、私には分からない。

私は螺旋階段を昇って、ある場所へと向かっている。その場所をうまく説明することはできないけど、どの場所に向かっているのか自分にはよくわかっている。
けれど、階段は妙に長い。塔の中のような場所を、上へ上へと向かっているらしい。階段の終着点は見えない。窓がなく、薄暗いからだ。窓がないのに、どうして自分の足元は見えるのだろう。まるで、私自身が発光する生き物のよう。深海でも触覚で周りを探る魚のよう。
先が見えなくて不安に駆られるけど、でも私は昇るしかないというのが自分にはよくわかっている。

朋美の挙式と披露宴は、三月に入って最初の大安だった。

薄くて頼りない青空と、刷毛でうっすら刷いたような白い雲。空だけ見ていると春先の暖かい日和だけれど、吹く風はまだ冷たい。
出かける前に、姿見の前で入念に自分自身をチェックする。
化粧は完璧。今日はことのほか、アイラインが艶かしく引けた。目尻に一房つけた付け睫毛が、下を向くと頬に影を落とす(九十度近く睫毛を上げるのは、若いだけしか魅力のない女がやることだ。例えば、マリのような)。
ドレスは落ち着いたゴールド。裾や胸元に派手な刺繍が施されている。柄は竜や牡丹でどぎついけど、色がナイル・ブルーやパロット・グリーンでとても渋い(ところどころポイントにマゼンタが散りばめられているのが、とてもキュート)。シンプルなホルターネックで裾も長め。でも背中は大きく開いていて、私の華奢な肩や形のいい肩甲骨、ほどよくついた筋肉と脂肪(澤村さんが触り心地がいいと賞する)を際立たせている。
くるり、と後ろを向いて、今日も背中が魅力的であることを確認し、安心した。毎日のストレッチの成果が出ている。髪はあえて上げずにいつも通り巻いてあるだけだけど(その代わりピアスはいつもよりずっと派手)、髪をかきあげたときに見える背中が周りの注目を引くだろう。
歳をとった花嫁の式には、黒を着ないと決めている。
二十歳頃は黒いシンプルなドレスに派手なアクセサリーでも付けておけば充分魅力的だったけれど、三十女がそれでは華がなさすぎる。
それを自覚しないで、バカの一つ覚えのように慶事にも黒ばかり着る女達。
色を楽しめるのも、歳を重ねてきた女性にこそ許される特権なのに。
黒を着ていいのは、ビジネスシーンだけだ。周りがむさくるしいオヤジばかりのとき。そのときだけは、黒は私をびっくりするほど美しく引き立たせる。隠しても隠し切れない色香が漂うのを、男達に見せつける。
まだ寒いので冬のコートを羽織り(でも色は明るい白)、ゴールドのビーズバッグを手にし、サテンのベージュのパンプスを履いて部屋を出た。こういうとき、澤村さんが家庭のないただの男で、式場まで送ってくれればいいのにと思う。晴れてよかった。パーティー用の靴がダメになるのは、テンションが下がりすぎる。

会場に着くと、理恵子が先に到着していた。ちょうど受付をするところらしい。
一瞬、誰か分からなかった。薄い紫色の渋い訪問着を着ていたから。そうか、もうこの子はミセスだった。髪の毛もきっちり結い上げて、新妻の喜びをタイトに納めている。
「さやか! 久しぶり。二次会以来ね」
「どう? 新婚生活は」
「毎日ご飯の支度が大変。何作ろうかって考えるのが。ほら私、ずっと実家にいたでしょ? 偉いわねぇ、さやかは。ひとりでもちゃんとやってるんでしょ?」
「ひとりならサボるのも簡単だから、そんなに大変でもないわよ」
理恵子が芳名帳を記入する間、私は白のコートを脱いだ。華やかなドレスと、それに負けないボディライン(特に手入れがきちんと行き届いている、白い背中)。会場にいる人の視線が私に集まるのが、わかる。男性は眩しいものでも見るように。女性は「はしたない」と眉をひそめながら、嫉妬をむき出しにしている。そんな視線を糧にしながら、優雅な物腰で祝儀袋を出し(何しろ何年も秘書をしているから完璧に!)、美しい姿勢と筆跡で芳名帳に記名する。
「相変わらずキレイねぇ」
先に受付を済ませた理恵子がしみじみと言った。女の嫉妬もパワーになるけど、素直な賛美ももちろん心地いい。
チャペルでの挙式が始まるまで、ロビーのソファに座って白ワインを飲んだ。理恵子のほかにも大学の友人が何人か来ていて、中には卒業して初めて会うような子もいる。結婚式は、いつも思うけど同窓会みたいだ。
オープンしたばかりの結婚式場には、芝生の広がるガーデンと、それを取り囲むようにチャペルとバンケットルームが建てられている。白ワインを一杯空ける頃、出席者がチャペルに案内された。
チャペルで初めて朋美のダンナを見た。
馬みたいな顔、というのが率直な感想。カッコイイとは決して言えないけれど、素朴で真面目そう。夫には向いているタイプなんだろうと思う。緊張していて、可哀相なくらいだ。
それに引きかえ、朋美はちょっとは緊張していそうだけれど、嬉しそうな笑顔を見せながら入場してきた。ふわふわのウェディングドレス。スカートはオーガンジーで綿菓子のように膨らんでいて、胸元にもレースがたっぷり付いている。巻き髪に、長いベール。私には絶対似合わないデザイン。三十目前の花嫁がラブリーでフェミニンなのもどうよ、と思うけど、それを素直に着たいと思って着てしまう女の子が羨ましくもある。

いーつくしみふかーきー
とーもなるイエスはー

クリスチャンでもないのに、賛美歌が歌えるようになるなんて。学生の頃は想像もしていなかった。

披露宴のテーブルは、理恵子と隣同士の席だった。テーブルのメンバーは全員大学の同期。会場は天井が高く、ガーデンを見渡せる大きな窓がついていて、明るく気持ちがよかった。昼の式に、よく似合う。真っ白な壁や天井と、白いテーブルクロス。飾ってある花はピンクのバラで、恥ずかしくなるくらい甘ったるくて可愛らしいデコレーションだ。
「朋美のお相手ってどんな方?」
座席表を見ながら理恵子に尋ねる。朋美のダンナは、知らない名前だった。
「私も会ったことなかったんだけどね。誰かの紹介とか言っていたよ」
「あ、それ私も聞いた」
同じテーブルの同期が話に参加する。
「朋美、大学のときのカレシと仲良かったから、そのまま結婚すると思ったのにね」
「ああ、健介でしょ? あの子入学してからずっと付き合っていたもんねぇ」
「朋美って、就職してから急にはじけてなかった?」
そうそう! と何人かが一斉に声を挙げた。
「健介と別れたなーと思ったら、確かさ、職場の先輩と付き合っていたよね」
「一時期、会社の人と不倫していたじゃん」
「朋美、おじさんに好かれそうだもんなー」
卒業してすぐの頃の友人の結婚式は、それなりに感激したし心が暖まった。
そういう子は、大抵学生時代の恋人と長い春を経てゴールインしたり、そうでない子は職場で大恋愛して花火のようにぱっと結婚していった。友達が悩んでいたのを思い出してちょっと涙ぐんでみたり、ぴったりハマったとしかいいようのないカップルを見て羨ましかったり、そんな気分になれた。
三十直前に結婚に駆け込む新婦達は、打算に満ちている。学生の頃はこの子そんなタイプの男は好みじゃなかったのにと思ったり、過去の男性遍歴を順に思い出しているだけで式が終わったり。式を挙げる方も、招待される方も、微妙。何度も式に出席して、引き出物の紙袋を持ち上げただけで中身が分かる頃になると(そして今日は、ギフトカタログ・ペアのカップとソーサー・赤飯かお菓子といったところだろう)、結婚式も単純にハッピーだとは喜べない。
とはいえ、「三十までに結婚する」という目標を確実に達成する意思的な彼女たちに、羨望の気持ちがないわけでもない。

と、披露宴が始まった。
せっかく晴れたいい日なのに、カーテンを閉めてスポットライトで新郎新婦を照らす。
馬面のダンナは酒も呑まないうちから緊張と興奮のせいか赤ら顔で、ベールを取ってティアラをつけた(これがまた若い子がつけそうな可愛らしいヤツ)朋美は、笑顔でほっぺがぴかぴかだった。雛壇に座ってからも、ずっとニコニコしている。シャンパンの泡が飛んでしまうのではと心配する程、馬面の上司が長く乾杯の挨拶をしていても、それすらも楽しそうにニコニコしていた。馬面は、地方のいい大学を出て、大手メーカーの系列会社で真面目に勤務しているエンジニアらしい。といっても、朋美の略歴もずいぶん粉飾されていたから(例えば「大学を優秀な成績で卒業」とか。確か単位はギリギリだったはずだ)、ちょっとは割り引いて考えなきゃいけないだろう。やっと出た「乾杯」に合わせてグラスを掲げて、少し温くなったシャンパンを口にする。今日は、あとどれくらい陳腐な演出に付き合わされることになるんだろう。乾杯の後の拍手に紛れて、溜息をついた(でも顔は最上級の微笑を浮かべておく)。
結婚式場での結婚式は、好きじゃない。
結婚式用に設計されたファシリティーは快適ではあるけれど、ホールスタッフは素人くさいし、料理が美味しいためしもない。
「さやか、それはしょうがないのよ」
同じテーブルの既婚者が言う。テーブルの半分は結婚していて(もちろん子持ちもいる)、婚約中という子もいた。数年前は同級生の結婚なんて大事件だったのに、今はシングルの方がマイノリティになっている。
「ほら、結婚式って大抵は一見さんで、式場を利用するカップルは二度と来ないじゃない?」
二度来る人もいるかもね、と誰かが言って笑い声が起こる。
「だからプランナーとか式場のスタッフにはさ、結構いい加減な人がいるのよ。私、自分の式のとき、ホントあったまきちゃった。プランナーさん、超テキトーなんだもん」
「式の段取りがめちゃくちゃって、理恵子めっちゃ怒っていたもんね」
「そうなの! 衣装合わせのときにメイクさんにさ、これって打ち合わせしてないんですか? とか言われて初めて気づいたこととかね。腹立ってプランナー替えろってクレームつけたら、その後は仕事ちゃんとしているのよ。できるんなら最初からやれよってカンジ」
「わかる! 私のときもそうだった!」
既婚者の誰かから賛同の声が上がった。
「式挙げた後だとさぁ、こういうときに、あーこの子カネかけたなーとか、分かるようにならない?」
別の既婚者が言い出した。
「なるよねー。あ、この花は私が諦めたサイズだ、張り込んだな、とかね」
「どっかの雑誌で見たようなドレスだね、とか。確かレンタルでいくらだったかなって考えちゃう」
「さやかは予定ないの? 結婚」
急にふられて、口に運びかけていたサーモンを一旦皿に戻した。
「ないよ」
「ウソ、全然?」
「全然。ちっとも。まったく」
「ホントに? カレシは?」
「さあ。どうなんだろうね」
「ふーん。仕事が面白くて結婚できないってカンジ? 結婚興味ないとか?」
「仕事は普通だけど……。興味がない方かな」
「へぇ、もったいない」
既婚者のひとりにそんなことを言われた。
「もったいない?」
意味が分からず、聞き返す。
「だって楽しいよ。結婚すると、毎日」
「どんな風に?」
「どんな風にって……」
今度はその子が困っていた。なんでこんな簡単なことが分からないの? という顔をしている。
結婚して仕事を辞めて、毎日毎日ゴハン作りながらダンナを待って、家計簿とにらめっこするのが楽しい? それとも仕事を続けて、くたくたになって帰ってきて、慌てて夕食を作ったりダンナに風呂掃除させるのが楽しいのだろうか。
十年前は、同じ教室に座って、同じように集まって恋愛話をしてきた人たちなのに、なんだか今は、違う生き物のように思える。
「まぁ、さやかは美人だから、困らないんだろうね」
と、これまたわけのわからない締め方をしたところを見ると、相手も似たような気分なんだろう。

 

披露宴の途中トイレに抜け出してスマホを見ると、澤村さんからメールが入っていた。

──今ゴルフが終わったところ。そっちは?

披露宴が何時くらいに終わりそう、ということを返信して、化粧を直していると、もう一度メールが入る。

──時間がちょうどいいから迎えに行くよ

ついつい顔がにやけてくる。チークなんか塗らなくても、恋人や愛人さえいれば、女の頬は桜色になる。披露宴が終わるのが、待ち遠しくて仕方がない。
以前は披露宴が終わると二次会に流れたり、二次会がなくても友達や声をかけてきた新郎の友人たちとお茶しに行ったりしたものだけど、既婚者が増えるとそんな空気もない。また連絡するね、と気のない約束をして、さっさと解散する。
会場を出ると、西の空が少しだけ茜色になっていた。
結婚式場からほど近い、駅のロータリーで澤村さんの車が待っていた。青いプジョー。運転席で、サングラスをかけた澤村さんが手を振っている。
「ごめんなさい。待たせた?」
「いや、今来たところ」
引き出物の入った大きな紙袋をハッチバックから積んで、助手席に乗り込む。澤村さんがサングラスを外して、素早く私の唇にキスをした。この人の、こういう愛情表現が好きだ。
「今日のゴルフは、スコアが最低だった」
サングラスをかけ直し、車を発進させながら澤村さんが言った。
「なんで? 寒かったから?」
「いや、さやかのことばっかり考えていたから」
私はたまらなくなって、澤村さんの左の太ももに右手を乗せた。澤村さんは左手を、私の右手に重ねる。
三十分ほどでマンションに着いた。時間はまだ早い。
「うちに寄ってお茶でも飲む?」
と聞くと、澤村さんは引き出物を部屋まで運んでくれた。
澤村さんが来ると思っていなかったので、部屋は少し散らかっている。玄関には、昨日使ったパンプスが置いてあるし、コーヒーテーブルには郵便物が置きっぱなし。先週は掃除できなかったので、隅には埃が溜まっている。澤村さんが洗面所で手を洗っている間(幸い、昨日洗濯したので洗面所はすっきりしている)、見苦しくない程度に慌てて片付けた。
着替えようと思ってコートを脱ぐと、澤村さんが後ろから抱きついてきた。
「さやか、このドレス、すごいセクシー」
「そう?」
澤村さんは、私の髪の毛を掻き分けて、首筋にキスをする。大きく開いた背中に、指先が滑る。洗ったばかりで、ひんやりした指。
「こんなドレス着ていたら、男が声かけてきただろう?」
「ううん、全然」
「うそつけ」
背中に何度も何度もキスをする。澤村さんの、さらりとした唇の感触が気持ちいい。
「俺なら、我慢できなくて絶対声をかける」
背中を撫でていた手は胸に回って、もう片手はドレスのスリットから侵入して太ももを撫でた。太ももと、お尻と、私の一番敏感なところ。私はそれだけでとろとろになって、目を閉じて澤村さんの手の感触を楽しんだ。
「何、これ?」
急に言われて、なんのことかさっぱり分からなかった。「え?」と聞き返すと、「これ」と言って右手で胸を揉む。
「ああ、ヌーブラ」
へえ、と言いながら、澤村さんはドレスのボタンを外して私の上半身を剥き出しにした。いつも思うけど、男性の太い指は意外に器用だ。小さいボタンもブラのホックも、難なく外す。
「へぇ、初めて見た」
後ろから抱きついたまま、姿見に私を映して観賞している。何度も、へぇとか、ふぅんとか言いながら、ゴールドのドレスを私の身体から剥いでしまった。ヌーブラと、薄いグリーンのショーツと、パンストだけの私。
「いいね、これ。便利だね」
ほぼ裸になった私の身体のあちこちを撫で回しながら(鎖骨や腹や腰骨やお尻や、いろいろなところ)、澤村さんが言った。
「便利?」
「だってこれ、剥がすだけだろ?」
べろん、とヌーブラが剥ぎ取られ、私の胸が露わになった。特別大きくはないけれど、形がいいバスト。澤村さんが正面から抱きつき、私の唇から首から胸にキスの嵐を浴びせた。澤村さんのキスの合間に、澤村さんのシャツのボタンを外し、ベルトを外す。男が私を欲しがっているのを確認するほど、安心で楽しいことはない。私たちは素っ裸になって、寝室へ移るのすらもどかしくて、そのままソファで抱き合った。
澤村さんとのセックスは、たまらなく気持ちいい。
私が触ってほしいところを触ってくれるし、私が言ってほしい言葉を囁いてくれる。
終わる頃には、身体の中心から全身に広がる心地よい疲労で、私はぐったりしてしまう。男がぐったりと、私の身体に乗っかかっているのも、好きだ。私の身体に満足した証。
裸で私が白いソファに寝そべっていると、澤村さんも裸のままキッチンへ向かった。男の人の、すとんとした真っ直ぐな腰のラインが好き。澤村さんのお尻はきっちり引き締まっていて、ふくらはぎに形のいい筋肉がついている。いつものスーツ姿もかっこいいけれど、裸の方が断然素敵だ。
「酒は呑めないしなぁ。」
冷蔵庫を覗き込んでいる。買い置きのビールやワインが並んでいるが、今日は車だから呑めない。仕方なさそうに、ペリエのボトルを取り出していた。
「紅茶飲む?」
「そうしようかな」
まだ全身がけだるいけれど、身体を起こして私も裸のままキッチンに入る。ペリエを飲みながら、澤村さんは私の胸やお尻をちょこちょこ触る。くすぐったくて身を捩りながらだから、いつもの倍以上の時間をかけて、紅茶を淹れた。
春とはいえ、まだ三月。裸のままでいるのは寒い。エアコンのスイッチを入れて、バスローブを羽織った。澤村さんは、トランクスとシャツ一枚で寛いでいる。マグカップにアールグレイをたっぷり注いで、私たちはソファで並んでゆっくり飲む。
「あ、そうだ」
澤村さんの腕をほどいて、私は玄関に置きっぱなしになっていた引き出物の大きな白い紙袋をリビングに運んだ。
「ああ、ごめん。置きっぱなしだった」
「多分ね、お茶請けがあるのよ」
紙袋の中身をリビングの床に並べていく。たち吉の小鉢、鰹節のセット、カタログギフト、そしてバウムクーヘン。チョコとミルクの二種類が入っていた。ひとり暮らしには、明らかに多すぎる量。
ペティナイフでバウムクーヘンを一口大に切って、コーヒーテーブルに乗せた。
「結婚式、どうだった?」
ミルクの香りがするバウムクーヘンを口に放り込みながら、澤村さんが聞いた。
「うーん、そうだなぁ。この歳になると参列者も慣れ切っちゃって、あんまり感激とかはないかな」
「まぁそうかもな」
カタログギフトをぱらぱらめくって眺める。職業柄、この手のものを見る機会は多い。大した値段のものではないな、というのはすぐわかる。
「こういうのって、欲しいなって思うのはなかなか載ってないわね」
「ふーん。この鍋とかは?」
「別に鍋は、今足りてるし」
「アクセサリーとかもあるじゃん」
「こんな安物、要らないよ」
「厳しいなぁ」
「あ。リフレクソロジーがある。これにしよっかな」
駅前の、リフレクソロジーのチェーン店のクーポン券もあった。中途半端に仰々しい食器や、気に入らない傘とかよりは、よっぽど私を幸せな気分にしてくれる。
「そんな形に残らないものでいいのか?」
「いいのよ。贈った方だって、形に残してほしかったらカタログギフトにはしないでしょ」
チョコ味のバウムクーヘンを食べて、アールグレイを飲んだ。紅茶が胃に落ちて、身体の中から私を暖める。
バウムクーヘンを次々に平らげる澤村さんに、ふと私は聞いてみたくなった。
「澤村さんは、自分の結婚式のときは、引き出物どうしたの?」
「ええ?」
澤村さんは、一瞬眉をひそめて考えるような顔をしたが、すぐに「覚えてないよ」と答えた。
「まったく覚えてないことはないでしょ?」
「カタログギフトなんかは、使わなかったと思うけど」
「ふうん」
二人で黙って、おそろいのマグカップから紅茶を飲む。
「奥様がしっかりしてみえるのね」
「ええ?」
もう一度、私の言葉に聞き返す。澤村さんは、もうバウムクーヘンには手をつけていなかった。
「澤村さんが覚えてないってことは、奥様がそういう細かい段取りつけていたってことでしょ?」
なんとなく、意地悪したいような気分になって、そう言ってみた。澤村さんは、何も答えない。多分、もう一分黙った後、立ち上がって帰る準備をするんだと思う。玄関から出るとき、「また来るよ」とか言いながら私にキスをして、青いプジョーの中で徐々に私のことを頭から追い出していくんだと思う。

シンクに、コンロから外した五徳や金具を置き、重曹をふりかけ、しばらく置く。
汚れが浮いてきたら、ブラシで擦り落とす。
たまに、夜中に鍋やコンロの掃除をしたくなる。磨いて磨いて、ピカピカになるまで磨く。その間は、何も考えなくてすむから、好きだ。
毎日コンロの掃除はしているのに、澱が溜まるように汚れがこびりつく。日々気持ち悪くなっていく、私の心のように。

真剣に五徳を磨きながら、それでも頭の片隅で、メールの着信音が鳴るのを待っている。