かぐやひめのものがたり 三 石上の中納言の北の方は

この度はお見舞いいただきまして恐れ入ります。
殿が亡くなってからいつの間にやらずいぶん経ちますこと。最初はあちこちからお気遣いいただいたものですが、月日が積み重なりますと彼岸の方のことなど皆様お忘れになるようで、喪が明ける頃には邸はすっかり静かになってしまいました。

ええ、邸の者にも何人か暇を取らせました。あいにく殿は世継に恵まれませんでしたので、殿が所有なさっていた荘園などは朝廷にお返しするよりほかにございませんでしたの。
私も既に両親を亡くしている身。そのうえ夫に先立たれ、お恥ずかしい話ですが日々の暮らしにも困窮している有様ですから、余分な従者や女房を養うことなどできかねますので。邸の荒れた様子をご覧になれば、お察しいただけるかと存じます。

石上の中納言様について、ですか? ほほほ。私よりもあなた様の方がよくご存知なのでは? 

殿との縁組は私の父が決めたこと。形ばかりに歌を交わし、形式通りに露顕を行い、ほどほどに殿は我が家にお通いあそばしました。その程度の夫婦仲ですから、私などより禁中での様子をご覧になっているあなた様の方が殿の人となりについてはよく知っていらっしゃいましょう。
なんですって? 中納言様のようにご身分の高いお方と言葉を交わす機会などないと? ほほほ。ご冗談を。あなた様のご身分であれば、いかな貴人とでもお付き合いがございましょう。畏れ多くも、主上とも……。

それはさておき、こうして邸奥で静かに暮らしている私の耳にも、殿が世間からどう評されているかは届いております。背の通り小心で、毒にも薬にもならぬ方。古の、戦乱の世であれば、まず生き延びることなどかないませんでしょう。今のように血筋がものをいう時代でなければ、上達部になれるような器の方ではございませぬ。
いえいえ、そのように否定なさらずともよろしゅうございます。大して睦まじくなかったとはいえ我が夫のことですから、殿の人柄については私もわかっているつもりでございます。

申し上げておきますが、私は殿のそういう点を決して嫌っていたわけではありません。お若いあなた様にはおわかりにならないかもしれませぬが、むしろ好ましいとすら思っておりました。ええ、小心で、優柔不断で、好きを解さぬ不器用なところを。
もちろん私も古びたとはいえ女ですから、見目麗しく風流で高貴なお方、そう、あなた様のようなお方に憧れないわけではありません。けれど、夫婦として年月を重ねるのには、狂おしいほどのときめきなど必要ございませんの。亡き殿のような方が夫としては良いと思うこともございます。
位人臣を極めるような野心などありませぬが、目立つこともありませぬから勢力争いに巻き込まれることもなく、中納言にまで出世いたしました。器量良しとは言い難く、人品も雅とは程遠うございますが、浮気の心配はございませぬ。大して良いこともないかもしれませぬが、気安く暮らすにはちょうどよい夫でございましたわ。このように平和なご時世であれば、ああいう方が程良い夫と申せましょう。

何ですって、殿の形見があなた様のお手元に? まぁ、それは奇妙なご縁ですこと。あなた様と生前ご交流があったなどとは伺っておりませぬが……。

……ああ、この硯箱ですか。ええ、これは殿のお傍近くに仕えておりました従者に暇を出す際、形見として分け与えたものでございます。その者が食うに困って売り飛ばしたのでしょう。殿の形見とはいえ、皆も妻子を養わなくてはなりませぬもの。致し方ないことですわ。
私の手元に? いいえ、お返しいただかなくて結構。正直に申しますと、これは二度と見たくもございませんの。せっかくお持ちいただいたのにこの言い草、たいそう失礼とは存じますがお許しください。さぁ、どうぞ。お返しいたしますわ。

はい。その硯箱は、亡き殿が生前愛用していた物でございます。お使いになるところを幾度か私も見ておりますから、間違いのうございます。
愛しい夫の愛用品を手放すのは忍び難ろうですって? ほほほ。あなた様はたいそう女人をお泣かせになっているのでしょうね。女の気持ちというものを理解していらっしゃらない。無礼を申し上げるようですが、寡婦の戯言と聞き流していただければ結構ですわ。

確かに殿は夫としては悪い方ではございませんでした。けれど、人の心なぞ簡単に変わります。夜毎に形を変える月のように。
殿はそこまで激しくお心移りをするような方ではありませんでしたが、それでも、恋とはここまで人を狂わせるのかと思うほど人が変わってしまわれましたわ。人が変わった後の殿は、良い夫などとはとても評価できる有様ではございませんでした。
はい、その恋の相手とは輝夜姫のことでございます。下々の者までが知るところとなっておりますから、隠し立てするつもりはございませぬ。あなた様の仰る通りですわ。
私のように邸奥でひっそりと暮らしている身では、世間の話には疎うございますの。殿も世情について私にあれこれお話しになる方ではございませんでしたから、余計に私は世間知らずでした。ですから、おや、近頃殿はあまり北の対にお越しにならないわ、などと気づいた頃には、既に殿は輝夜姫に狂っていたようでございます。これはおかしいと思いまして女房や従者に訊ねますと、輝夜姫とかいう評判の娘の家に通い詰めているというではないですか。

嫉妬、でございますか?
そうですわね、まったく妬かなかったといえば嘘になりましょう。それまでも私以外に通う女人がおりましたが、それとはまったく様子が違いましたから。
それまでは殿は私を正妻として立ててくださっておりましたし、こちらとしても殿がまったく好きを知らぬようなお方ではかえって恥ずかしゅうございますので、嫉妬などとは無縁の心持ちでしたわ。それがあの輝夜姫に限っては……。
私の許へちらりとも顔をお見せにならず、毎日毎夜輝夜姫の邸へ通っているということでしたもの。それを聞いたときの私の驚きを、どうぞお察しくださいな。
禁裏でも家庭でも波風というものを嫌う殿がなさることとは、にわかには信じられませんでした。しかも輝夜姫と契りを交わし夫婦となったというのであればともかく、袖にされ続けているのにも関わらず通っていたとは……。それでも輝夜姫がしかるべきご身分の姫君なら、まだ堪えようもありました。けれど、得体の知れない下賤の娘というではないですか。私の胸に湧いてきたのは、嫉妬というより怒りと呆れでございました。

とはいえ、輝夜姫に最後まで求婚し続けたのが高貴なお方ばかりでしたから、それを聞いたときには正直安堵いたしました。世間の物笑いになるのが殿ばかりではございませんでしたもの。
求婚なさっていた方々ですか? ええ、さすがにそれは聞いておりますわ。大伴の大納言様、阿倍の右大臣様、車持皇子様、石作皇子様。この方々と並んでしまえば、中納言と申せど殿はかすんでしまわれますわね。もっとも、これほど高貴な方々でなくても、あの殿では勝ち目はございませんでしょうけれど。殿も早うにそれにお気づきになればよろしいのに、輝夜姫に惑わされてあんな事故に遭ってしまわれて……。

ええ、従者に聞きました。なんでも、燕の子安貝とやらを持ってこれば契りを交わすと輝夜姫が申したとか。まったく、馬鹿げているとしか申しようがございません。燕が貝を産むなど、教養などありはしない私が言うのもなんですが、常識的に考えられないではないですか。それなりにご身分のある方々が卑しい女の戯言に踊らされて、まったくおかしな話ですこと。
殿が関わっていなければ笑いの種で済みますが、殿は踊らされた挙句命を落として世間の人々から笑われているのですもの。残された私の胸中お察しくださいませ。ほんに、私の方こそ死にとうございます。
あら、燕の子安貝とやらを要求されたのは、亡き殿だけだったのですか。それは存じませんでした。それでは他の方々はいったい何を……。いえいえ、もう終わったことですから、知る必要もございませんね。輝夜姫とやらが他の方にもろくでもない物を求めたことくらい、容易に想像がつきます。

硯箱ですか? ええ、本当に必要ございません。亡き殿を偲ぶ思い出の品でしょう、と? お気遣いいただき申し訳ないのですが、それを見ると殿ではなく、忌々しい輝夜姫を思い出すばかりです。
殿を散々袖にして歌のひとつも返さないばかりか、殿の命まで奪った輝夜姫。殿が大怪我を負って瀕死の床にあるとき、あの娘はようやく見舞いの文を寄越したそうです。
しかもまぁ呆れたことに、燕の子安貝を取れずじまいのご様子ですから、もう待つ甲斐なぞありませんね、などと書いてきたそうですわ。
殿も殿です。そこで、いかに薄情な娘に虚仮にされ続けたかお気づきになればよろしいのに、自分が死ぬのを哀れんでほしいなどと返事をお書きになったそうで。ええ、もう腰も立たないような重傷を負っていらっしゃるのにですよ? 女房に手伝わせながら、息も絶え絶えに最期の文をしたためたとか。殿はその文を書いてすぐ、ご臨終あそばしました。その硯箱はそのときに使った物です。私がそれを見たくもない理由が、おわかりいただけたかと存じます。

ああ、はしたなくもずいぶんと喋りすぎてしまいましたわ。世から離れてひっそり暮らしているつもりでしたが、こうしてあなた様のようにご立派な方をお相手にしますと、年甲斐もなく華やいだ気持ちになってしまいました。どうぞご容赦くださいな。

輝夜姫のその後ですか? そんなものに興味なぞございませぬ。
高貴な方々を散々弄んできたのですもの。ろくな死に方は致しませんでしょう。