恋に落ちる瞬間

大学に入って最初の夏休みが終わって学校に出てみると、なんとなく空気が変わっていた。
どこがどうとかはっきりうまく言えないけど。

多分それは、僕の浅黒く焼けた肌とか、大型バイクの免許を取った佐藤の誇らしげなフルフェイスのメットとか、石橋の似合わない明るい髪の色とか、そういうものがごちゃまぜになって形成されたものだと思う。

佐藤達が「絶対あの女、処女捨てたよな」と極端に露出が多くなった女子を指さしてにやついているのを見ると、この変化は僕だけが感じているわけではなさそうだ。
あれだけうるさかったセミも、すっかり静かになってしまった。図書館の前の並木道を歩いていると、ときどき季節に乗り遅れたセミがジジジッと騒いでビックリする。

図書館に辿りつくと、出入り口の前のベンチに澤野さんが座っているのを見つけた。
澤野さんは、休み前と変わらずにそのベンチに座っていた。黒い革のブックカバーをかけた文庫本。化粧気のない顔とナチュラルな黒髪。紺と白のボーダーのサマーニットも見覚えがある。ベンチに置いてある野菜ジュースの紙パックも、休み前と同じだ。
黙って近づくと、澤野さんは顔を上げた。
「吉富くん、久しぶり。日に焼けたね」
澤野さんは、にっこり笑うと八重歯が覗く。「気にしているから言わないで」と本人は言うが、僕はそれをチャーミングだと思う。昔のアイドルみたいだ(これを言うと彼女は怒るけど)。

久しぶり、と言いながら、僕は野菜ジュースの横に腰掛けた。
澤野さん、野菜ジュース、僕。
休み明けでなんとなく落ち着かなかった教室と違って、図書館前のベンチは休み前と変わらず平和だ。

「吉冨くんは夏休み何していたの?」
文庫本に栞を挟んで、澤野さんは僕に聞いた。大きい鞄の中からミンティアを取り出して(一番カラいやつ)僕に勧める。僕はミンティアを食べるとクシャミが出るので、断った。
「海の家でバイトしていた」
「それで真っ黒なんだ。すっかり海の男だねぇ」
澤野さんは野菜ジュースのパックを持ち上げて、ずずっと啜った。残りわずかだったようで、ストローを咥えながら紙パックを器用に畳み始める。
「海の家でバイトなら、水着のギャルがいっぱいだね。いいバイトだよね、それ」
紙パックを畳ながら、くつくつと澤野さんは笑った。
僕は何気なく、くつくつ笑う澤野さんを見て、あれっと思った。澤野さんは休み前と変わらない、と思っていたんだけど、なんだかやっぱり変わった気がする。どこがどうとかはっきりうまく言えないけど。笑っている頬とか、マスカラが塗られていない睫毛とか。
「別に、水着のギャルがいるからって、いいバイトとは限らないよ」
「贅沢者。逆ナンとかされなかった?」
澤野さんは僕の方を見て、瞬きを繰り返した。なんだか僕は落ち着かない。
「ないよ、そんなこと」
「ふぅん、そうなんだ。そりゃ残念」
「澤野さんは、夏休み何していたの?」
水着のギャルの話が続いても困ってしまうので、僕の話を終わらせるために彼女に話しを振ると、澤野さんは水をかけられた子犬のようにビックリした後、頬を染めた。

あれ、やっぱり変だ。
彼女の様子を見て、僕は急に落ち着かなくなった。

「あのね、旅行に行ったの。四国に」
澤野さんは、瞳を潤ませながら遠くを見る。僕の顔は見ていない。多分、目は四国の山を見て、耳は四国の潮騒を聴いている。
「ひとりで回ったの。ボストンバッグひとつ持って、電車とバスでのんびり。途中、愛媛でね、バス停でバス待っているときに夕立に遭ったの。で、近くの古い本屋の軒先で雨宿りしていたら、本屋さんが中にどうぞって言ってくれて」
彼女の手の中で、野菜ジュースの紙パックはキレイにぺちゃんこに畳まれていた。
「三十くらいの、ちょっと線が細いカンジの本屋さんで、でね、あの作家が好きだとか、そういう話から始まって、ずっと話し込んじゃって。どれくらいかなぁ、バスを何本か見送って、雨が止んでも話し込んでて……。二時間くらいだと思うんだけど、一瞬だと思えるくらいに楽しかったのね。人と話していて、こんなに楽しいと思ったの、初めて」
ここまで話して、ふいに澤野さんは僕の方に向いて、僕の瞳を覗き込んだ。
「私、恋に落ちてしまったの」

澤野さんがうっとりとした様子でそう呟いたとき、僕は心臓が一瞬跳ね上がった。息が詰まって、そのまま呼吸が止まるかと思った。
彼女の頬はびっくりするくらい清純につるつるしているけど、目じりが妖艶なほど色っぽくて、僕はずるい、と思った。卑怯だ、とすら。

僕は、その瞬間の澤野さんに恋をした。